コラム

本コラム欄では、八木書店の出版物に関わる紹介文や、『日本古書通信』編集長の日記、会社の歴史などを掲載いたします。ぜひご覧ください。

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  • キリシタン文献をMissionary Linguistics(宣教に伴う言語学)の視点から読み解く―『キリシタン語学入門』の刊行―(岸本恵実・白井純)

    イエズス会の宣教とキリシタン版 いまから400年ほどまえの16世紀後半から17世紀前半にかけて、信長・秀吉・家康の活躍したキリシタン時代は大航海時代のただなかにあった。ポルトガルやスペインが世界各地に版図を拡大し、商人や宣教師がアフリカ・アジア・アメリカ大陸で活動するその時代、宣教師たちはカトリック […]

  • やさしい茶の歴史(四)(橋本素子)

    入唐僧と喫茶文化 第1回に述べた平安時代前期の永忠・最澄・空海等のあとも、唐風喫茶文化は、何度もさまざまな人々によって持ち帰られたものと見られる。 そこで今回は、視点を国外に向け、中国の唐に留学した僧侶「入唐僧」が、唐風喫茶文化をどのような場面で体験したのか、平安時代前期の円仁と中期の円珍の事例を見 […]

  • 柳澤吉保を知る 第10回: 柳澤家と甲斐国―3本の寿影(その二)常光寺本―(宮川葉子)

    はじめに 柳澤吉保を知る第9回では、甲府市一蓮寺本吉保寿影を辿った。ここに言う寿影とは、吉保が元禄15年(1702)年に狩野常信に描かせ、翌16年8月26日に画賛を書き入れた3本の生前画像のことである(『楽只堂年録』第4、139頁)。 3本は各々、一蓮寺(甲府市)・常光寺(韮崎市)・永慶寺(大和郡山 […]

  • やさしい茶の歴史(三)(橋本素子)

    『江家次第』に見る「季御読経」の茶 今回は、平安時代、宮中における仏教行事である「季御読経(きのみどきょう)」において、引き茶として振る舞われた茶が、どのようにして飲まれていたのかを見ていく。 なお、儀礼は毎回判で押したように同じことを繰り返すとは限らない。むしろ、その時その時の事情で変わるものと捉 […]

  • 須恵器は何故受容され消滅したのか―須恵器の歴史をたどる―(渡辺一)

    須恵器とはいかなる焼き物か 須恵器(すえき)は日本で最初の焼き物です。縄文土器以来の野焼き(覆焼きがより正確)と違って、斜面に穴(ないし溝)を掘ってトンネル状にした窖窯(あながま)で焼かれてつくられた土器です。窯の形や大きさは時代ごとに違いますが、大きさはだいたい全長6~8m、地面からの深さは1~2 […]

  • やさしい茶の歴史(二)(橋本素子)

    日本最古の茶園・大内裏茶園 前回、弘仁6年(815)6月3日、嵯峨天皇は、畿内等で茶を植え、それを毎年献上するように命じたが、実際にそれが行われたかどうかわからないと書いた。また、永忠・最澄・空海ら入唐僧が、帰国後茶をどのように調達していたのかわからないとも書いた。 そのような中で唯一、嵯峨天皇の命 […]

  • 柳澤吉保を知る 第9回:柳澤家と甲斐国 ―3本の寿影(その一)一蓮寺本―(宮川葉子)

    はじめに 柳澤吉保を知るの第8回では、吉保主催の武田信玄133遠忌を中心に、吉保の信玄への思いを辿った。信玄生誕500年記念として甲州市の恵林寺で開催された講演会(2021年12月8日)の活字化である。 本稿はその拾遺にあたる。甲府市の一蓮寺に奉納された吉保寿影を手掛かりに、吉保の甲斐国での立ち位置 […]

  • やさしい茶の歴史(一)(橋本素子)

    喫茶文化史とは何か これまで、茶の歴史を扱う分野は、「茶道史」や農業史のなかの「茶業史」であった。特に茶道史では、千利休が「茶の湯」を大成するまでのひとすじの流れを描くものであった。しかし、その流れから外れる事柄は、「茶の湯」の通史に無理に引き付けて理解されたり、逆に全く評価されなかったりと、フラッ […]

  • 『上皇と法皇の歴史 仙洞年代記』の魅力(槇道雄)

    院政時代に限らず、歴代上皇・法皇の歴史や院政形態の全体像をわかりやすく解説した年代記を発刊。著者がその読みどころを紹介。 なぜ「天皇」の読み仮名は「てんこう」ではないのか? 今日、「天皇」を「てんこう」と読むことは通常ありえない。なぜならば、マスコミなどを通して、あらゆる機会に「天皇」は「てんのう」 […]

  • 柳澤吉保を知る 第8回:吉保の武田信玄への思い―吉保執行信玄133回忌を中心に―(宮川葉子)

    はじめに 柳澤吉保を知るの第7回では、吉保側室正親町町子を、公家文化を柳澤家にもたらした人物として探った。 今回は、残る4人の側室と子息・子女を扱う予定であったが、変更し、吉保執行の武田信玄133回忌を中心に、柳澤吉保・吉里の甲斐国経営を見ておく。 本年は信玄生誕500年。様々なイベントが開かれる中 […]

  • 柳澤吉保を知る 第7回:吉保の側室達―(二)正親町町子―その2―(宮川葉子)

    柳澤吉保を知るの第6回では、町子の実父は正親町公通、実母は水無瀬氏信女で大奥総取締に至った右衛門佐の局であることを検証した。当該第7回では、町子が吉保にもたらした堂上文化と2男児について見て行く。 吉保と北村季吟と古今伝受 ここで町子自身からはいささか遠ざかるが、町子を語るに避けて通れない古今伝受に […]

  • 柳澤吉保を知る 第6回:吉保の側室達―(二)正親町町子―その1―(宮川葉子)

    吉保の側室6人のうち、飯塚染子に次いで側室となったのが正親町町子である。 正親町公通 公通は承応2年(1653)、正親町実豊末子として、藤谷為賢女を母に誕生した。吉保より6歳年長である。 元禄6年(1693)武家伝奏(武家との連絡にあたる朝廷の要職)、同8年権大納言、正徳2年(1712)叙従一位。山 […]

  • 柳澤吉保を知る 第5回:吉保の側室達―(一)飯塚染子―(宮川葉子)

    吉里誕生 吉保には側室が6人いた。最初が貞享4年(1687)に継嗣吉里を生んだ飯塚染子である。 吉保が無嗣絶家を免れ、柳澤中興の祖となり得たのは、ひとえに吉里誕生と無事な成長に依る。染子は男児3人、女児1人をなしたが、吉里以外は4歳未満で早世。吉里のみ残ったのであるから、柳澤家の好運も危うい確率にあ […]

  • 『宇治堀家文書』とは(橋本素子)

    静岡茶、狭山茶と並んで日本三大茶と呼ばれる宇治茶。しかしその長大な歴史とは裏腹に、宇治茶師の家の文書はほとんど現代に残っていません。今回は、中近世移行期に繁栄を見せた茶業の様子を知ることができる唯一の文書群といえる『宇治堀家文書』の見どころについて、見ていきたい。 『宇治堀家文書』翻刻の意義 宇治茶 […]

  • 柳澤吉保を知る 第4回:吉保と綱吉―身体に障害を持って生きること―(宮川葉子)

    コラムの第3回「吉保正室曾雌定子―その2 桂昌院の叙任と定子の登城―」で、綱吉生母桂昌院が、「普通の母親以上に綱吉を気遣う必要があった」理由を、次稿で述べたいと予告した。以下がそれである。 大樹寺の位牌堂 三十数年も前、愛知県岡崎市にある松平家と徳川家の菩提寺大樹寺位牌堂でのことである。そこには、寬 […]