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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第11回: 柳澤家と甲斐国―3本の寿影(その三)永慶寺本―(宮川葉子)

はじめに

柳澤吉保を知る第10回では、韮崎市常光寺が所蔵する吉保寿影を見た。元禄15年(1702)に狩野常信に描かせた3寿影のうちの1本である。

今回は大和郡山市永慶寺に奉納された1本を辿るが、少々複雑な事情が絡むため、稿が長びき、コラムの概念を逸脱するのをお断りしておきたい。

永慶寺本は『楽只堂年録』元禄16年8月26日条に(第4、139頁)、

烏帽子・直垂を着て、小さ刀を指、手に払子を持つ、題していはく〔首に新羅三郎廿世後胤と云へる印、尾に吉保と羽林次将と云へる二印を用ゆ〕
汝昰我我非汝/何用分仮分真/腰佩金剛宝剣/掃退野鬼閑神/吉保自題(〔 〕内割注、/は改行)

とある。

払子(ほっす。禅宗僧侶が説法時、威儀を正すに用いる法具)を手にするのは、参禅の印証(修禅の証明書)受領の標榜と思われる(後述)。

「汝は我だが、我は汝ではない、何により仮と真を分けるのか」云々とある画賛は、まるで禅問答。払子を勘案すると、吉保の禅の到達点の標榜か。

一方、武家の正装烏帽子・直垂に身を固め、刀を指し、「新羅三郎廿世後胤」「羽林次将」(近衛少将)印を用いるところには、甲斐源氏の誇りが窺える。

黄檗宗(日本三禅宗の一。承応3年(1654)に明僧隠元が開祖。宇治市の黄檗山万福寺を本山にする)に帰依し、5代将軍徳川綱吉の側用人として誠実に生涯を捧げた吉保。宗教人と武人双方を語る寿影の裏面を、以下考察したい。