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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第10回: 柳澤家と甲斐国―3本の寿影(その二)常光寺本―(宮川葉子)

はじめに

柳澤吉保を知る第9回では、甲府市一蓮寺本吉保寿影を辿った。ここに言う寿影とは、吉保が元禄15年(1702)年に狩野常信に描かせ、翌16年8月26日に画賛を書き入れた3本の生前画像のことである(『楽只堂年録』第4、139頁)。

3本は各々、一蓮寺(甲府市)・常光寺(韮崎市)・永慶寺(大和郡山市)に奉納されたが、そのうちの今回は常光寺本を辿る。

常光寺本は、束帯(朝廷の儀式・公事に着用した装束)に太刀を佩用(はいよう、からだにつけ用いること)した吉保像、文台には軍令が置かれ、吉保自題(吉保が自ら選んだ文言)とする漢文の画賛(出典後述)が描かれている。

七里岩と新府城

天正9年(1581)、武田信玄息勝頼は韮崎に新府城を築いた。

長篠の戦い(天正3年〈1575〉三河長篠城を包囲した勝頼軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が設楽原で戦い、連合軍が圧勝)以後の体勢立て直しを目途し、政庁機能を甲府の躑躅が崎館から移す先として、新しい府中を創出したのである。

新府城は、八ヶ岳(長野県東部から山梨県北部に跨がる火山群で最高峰は赤岳)から甲府盆地に向かい、北西から南東へ楔形に伸びる巨大岩盤の上に築かれた。

岩盤は7里に及び、屏風のように畳みなす側面の岩肌から、屏風岩と通称され、平成27年には国登録記念物の指定も受けている。

勝頼はその七里岩台地中央部に、岩盤の落差(130m)を巧みに利用した城を1年足らずで築いた。

しかし甲州流築城技術の結集と言われたこの城に、天正10年3月3日、勝頼は自らで火を掛けた。同族と信頼していた木曽義利(木曽義仲末裔、信玄女を母とするので勝頼には従兄弟)が織田信長に味方し離反したからであったと伝わる。

再起を期した勝頼は、岩殿城(大月市)に向かう。しかし謀反に遭い、途中の田野天目山(甲州市)で息信勝・妻北条夫人と共に自害、武田の世は終焉を迎えた。

常光寺の位置

七里岩台地上は、JR中央本線が紆余曲折しながら縦貫している。

ここで論の都合上、甲府から小淵沢までの各駅を列挙すると、甲府-竜王-塩崎-韮崎-新府-穴山-日野春-長坂-小淵沢となる。

甲府から営業キロで12.9㎞地点が韮崎。韮崎から西へ4.2㎞で新府。新府から3.5㎞で穴山。穴山から5.4㎞で日野春。

七里岩は韮崎に始まり、新府・穴山を経て、日野春へ2㎞ほど寄った所で終わる。名にし負う七里ながら、実際は10.7㎞ほど。里に換算すると2.8里である。しかし10㎞以上にわたる屏風岩は壮観である。

七里岩の南側を走るのが国道20号線。20号線に沿って流れるのが釜無川で、赤石山脈の鋸山付近を源流とし、市川大門付近で笛吹川と合流、富士川となる全長64㎞の河川である。

釜無川を底辺として、地形は北西方面に緩やかに上り坂になっている。南アルプス鳳凰山・甲斐駒ヶ岳の北麓一帯にあたるからである。

JR韮崎駅からタクシーで15分ほど、北麓の斜面を些か登った高台に常光寺がある。現住所は、韮崎市清哲町青木2878。

私が訪れたのは師走初旬、1日中晴れ渡った日の夕刻であった。常光寺の本堂前からは眼下に釜無川の流れが臨める。

その向こうには、オーストラリアのエアーズロックを彷彿させるような七里岩。岩越しの北西方向には、夕日に染まった八ヶ岳の嶺々。

まるで山越え阿弥陀(阿弥陀仏が上半身を山のかなたに現して行者を迎える来迎図)に突如出くわしたような感動であった。

常光寺略伝

吉保寿影の一本は一蓮寺に奉納された。文台に「古今和歌集」を置き、画賛に霊元院の長点を拝領した2首の和歌を染筆したものであったのは、柳澤吉保を知る第9回で述べた。

さらにそこでは、一蓮寺の寺号は、元亨元年(1322)卒した一条時信の法名一蓮寺仏阿元貞によること、時信は武川十二騎の祖にあたることも述べた。

時信の息が時光である。『系譜』(『柳沢家譜集』柳沢史料集成第4巻)に、

住于巨麻郡武川筋青木村始号青木

とあり、武川筋青木村に住し、青木氏を称し始めたと判る。

因みに吉保は自らを「新羅三郎廿世後胤」と称したが、それで行くと時光は第9世にあたる。

時光の息が常光(第10世)。経光、十郎太郎とも呼ばれた。『系譜』(同上)には、

於青木村建立武隆山常光寺 法名常光寺劫外然灯、

とあり、青木村に常光寺を建立、寺号は法名によるとわかる。

一方寺伝では、青木信定(第16世)が、大永年中(1521~1528)に海宗玄岱和尚を祖として開山(山号武隆山)。信定が開基(仏寺創建の財政的支持者)となり、青木家の菩提寺となし、自らも天文10年(1541)61歳で没しここに葬られたという。

初期は真言宗、後に曹洞宗に改宗し今に至る。伽藍は本堂の他に、山門・鐘楼・観音堂・庫裏等を有す。

本尊は薬師如来。本堂は元禄7年(1694)建立で、以後部分補修はあるものの、大半は往時を伝えるという(住職降旗龍雄氏談)。元禄7年とは、正月7日、吉保が川越城主に任じられた年でもある。

青木家と柳澤家略史

(1)信興
青木常光(第10世)から6代、第15世義虎に弟信興(弥十郎)があった。

信興から第16世信定までの系譜は下記である。

信興(弥十郎)は柳沢村に住し、柳沢を号したが早世。

(2)信房
信興の息貞興(弥太郎)の次男が信房(柳沢靭負)。甲州に在し、柳沢斎を号した。

(3)信兼
信房の息男が信兼。上州膳城素肌攻の先登(敵城攻めの一番乗り)を軍令違反と咎められ、勝頼から死を賜る。

(4)信久
追放された息信久は、穴山梅雪(武田氏の一族。駿河江尻城主。武田滅亡の際、家康に内通、信長に降伏した)に従い和州宇治田原で戦死した。継嗣はない。

因みに「上州膳城素肌攻」とは、天正8年(1580)10月、群馬県高崎市粕川町膳にあった膳城を、素肌(すはだ、武具をつけない状態)で見回った勝頼に、過剰反応した城中の後北条方が攻撃、反撃にあって落城したもの。その先駆けが信兼であった。手柄を急ぐ先駆けは軍令違反であった。

(5)信立
信定の息が信立(第17世)。武田信虎・晴信(信玄)二代に奉公し、数度の戦功を立て、天正18年(1590)73歳で卒し、常光寺に葬られた(『楽只堂年録』巻第1、4頁・『系譜』、以下特段の断りなき記述は同史料による)。吉保の曾祖父にあたる。

(6)信国
信立には6人の息男があったが、特筆すべきは信国・信俊・信生。

信国は、武田信玄の命で横手家を継ぎ、横手村に住した。しかし子なきまま、元亀元年(1570)正月、花沢城攻(今川氏の西の守り静岡県焼津市高崎に築城された花沢城。そこに籠城の今川家臣等と、信玄・勝頼等がなした14日間にわたる交戦)で討死。

(7)信俊
信俊(第18世)は吉保祖父。初期青木源七郎を称し、青木村に住したが、兄信国の討死後、信玄の命で横手家を嗣ぎ横手村に移る。

元亀3年(1572)12月の遠州三方原戦、天正3年(1575)5月の参州長篠戦、同8年10月の上州膳城素肌攻などでの戦功を立てた信俊は、信兼の遺跡柳沢村を賜り移住。横手村の領有も兼ねた。名乗りも柳沢兵部丞と改めた。柳澤家が柳澤を称する始発であった(『楽只堂年録』)。

天正10年春、信長が甲斐に進発。新府より逃れるに際し、勝頼は信俊等武川衆の随従を認めなかった。そして田野で生害、武田は滅亡した。

武田の支えを失った武川衆、信長の武田根絶やしの襲撃を恐れ、「一騎うちの要塞」(『楽只堂年録』第1・6頁)であった餓鬼咽(がきののど、柳沢村の餓鬼の沢を10㎞ほど遡った地点。急峻で登攀には高度な技術を要する)に籠もるうち、同年6月、信長も本能寺に果てた。

身の振り方に悩む武川衆に、今川氏直の勧めが頻る中、家康の誘いが届く。

招聘に応じた武川衆は、新府で家康に拝謁した。勝頼が火をかけたと伝わる新府城だが、拝謁に鑑み、城の機能は残存していたようである。

かつて青木村に住していた信俊は、対岸に連なる七里岩上の新府城で、徳川に従う決意を固めたのである。

天正18年(1590)8月、関東に入った家康により、信俊は武州鉢形(埼玉県寄居町)に采地を拝領。そこに四半世紀住し、慶長19年(1614)鉢形で卒す。享年67歳。法名高蔵寺安宗良心。高蔵寺に葬られた。

青木村・横手村・柳沢村と、鳳凰山・甲斐駒ヶ岳の北麓を北西へ沿うように移り住んだ信俊。故郷甲州の土を踏むことはなかったのである。

(8)信生
実は勝頼に従い天目山で果てた落合又温井(ぬくい)常陸の息。信立が養い、その女に娶せ青木氏を継がせ、慶長2年(1597)、家康に仕官した。

二人の間の女子(恵光院歓秋妙喜)は柳澤安忠(吉保父)に嫁し、吉保嫡母となった。恵光院の嫉妬を避け、吉保実母(了本院佐瀨氏)は厩で吉保を産み落とすと、上総国山辺郡二の袋村へ一人去ったこと、延宝6年(1678)6月16日の恵光院卒去を待ち、吉保は実母を江戸に呼び寄せたことは述べた(コラム第1回「吉保誕生」)。

従って青木家は、吉保にとって柳澤家の先祖であると同時に、嫡母の実家という二重の縁で結ばれ、常光寺も捨て置けない存在であったのである。

龍華山柳澤寺(りゅうげざんりゅうたくじ)

一条時信(法名一蓮寺仏阿元貞)の長子が義行。義行の長子が信方(一条太郎)。しかし何らかの事情で、信方は父義行の弟になった(『系譜』38頁)。

これにより信方は、青木村に常光寺を建てた常光の伯父となり、山高村に封じられ、始めて山高を称す。

信方から9代目が信之。武田信虎に仕え、天文9年(1533)死去、山高村の鳳凰山高龍寺(北杜市武川町山高2480)に葬られた(『新訂寛政重修諸家譜』第3、230頁)。

寺は信之が逝去前年、菩提寺として建立したものと伝わる。以後信直(のぶなお)まで4代の葬地となり、現在も建物と墓碑が残る。

一方、韮崎に始まり、新府・穴山を経て、日野春へ2㎞ほど寄った所で終わる七里岩を承けるように、鳳凰山・甲斐駒ヶ岳の裾野に点在するのが武川の村々。JRの営業キロで言うなら、日野春から長坂の6.3㎞に相当する。

うち旧北巨摩郡、現北杜市武川町柳沢1539に、明応5年(1496)3月建立、願主を柳沢信興とする高さ2.3mの「柳沢寺(りゅうたくじ)の六地蔵石幢(せきとう、石柱と仏龕〈ぶつがん、厨子〉・笠・宝珠などからなる)」(平成11年6月、武川教育委員会設置の案内板の標題)が残る。柳澤氏の地蔵信仰を伝える貴重な建造物として武川村指定文化財でもある。

龍華山柳澤寺は、鳳凰山高龍寺の末寺で、開基は石幢の願主に鑑み柳沢信興か。ただし柳沢村に住し、柳沢を号した信興(弥十郎)は早世しており(本稿「青木家と柳澤家略史」)、どこまで寺に関われたかは不明。

以後も細々と維持されて来たのであろうが、結局吉保祖父信俊は武州鉢形に采地を賜り、そこで終わり高蔵寺に葬られたように、柳沢寺は柳澤家と疎遠な存在になってしまう。

無住であったことも想定される柳澤寺は荒廃も加速、水害に遭い流失してしまったとの通説もある。

そんな具合であったから、恐らく鉢形へ移る際、信俊は柳澤寺にあった柳澤家伝来の位牌類を常光寺に預けたものと思われる。

それは信定(第16世)夫妻・信立(第17世)夫妻の4位牌であったらしいのが、「常光寺蔵本吉保寿影と念仏図」を納める際、同時に奉納された香奠目録から知られる。

それら位牌を常光寺は大切に供養。柳澤家の菩提寺の役割を見事務めたのであった。

さて、宝永元年(1704)甲府城主、翌年甲斐三郡で表高15万1千2百石余の他、内高7万7千4百石余を併せ、22万石8千石余を賜り、さらに翌3年には甲斐国東部の都留郡一円を預けられ、甲斐国主と称すべきを許された吉保。

これは武川衆一同の誉れでもあった。ここに至った柳澤家の祖先を手厚く守り通してくれた常光寺。吉保の遺命により吉里が寿影を贈ったのも、故なしとはしないのである。

『風流使者記』の常光寺

宝永3年(1706)9月7日(新暦10月13日)、吉保お抱えの学者荻生徂徠と田中省吾は駕籠で、神田橋の柳澤邸を出発、甲斐国を目指した。

これは甲斐国の藩政史料を充実させるための実地踏査であったようで、12日間に及んだ旅は、9月19日(新暦10月25日)に終わった。その折の紀行が『風流使者記』(『峡中紀行・風流使者記』雄山閣・1971年)である。

青木村の常光寺を訪ねた徂徠等は、青木家と柳澤家の祖先の霊位に焼香。

柳沢村を尋ね、餓鬼咽に挑戦するが到達できずに終わる。信長の襲撃を逃れ、そこに籠もり家を守った信俊等に、徂徠等は改めて感動を覚える。

常光寺蔵本吉保寿影と念仏図

吉保逝去の翌年の正徳5年(1714)3月19日、吉里は筆頭家老柳沢権大夫保格を名代に、常光寺に「永慶寺殿肖像一幅」と「永慶寺殿捧持念仏図一幅」を奉納した。

「永慶寺殿肖像一幅」が常光寺本吉保寿影である。吉保自らが書き入れた画賛の文言は、

運籌帷幄/決勝千里/還笑子房錯費工/韜略従来廖廓裏/吉保自題(/は改行)

とある。

『孫子』の兵法の一節という(米田弘義氏『大和郡山藩主 松平(柳澤)甲斐守保光―茶の湯と和歌を愛した文人大名 堯山』平成25年10月・柳沢文庫保存会)。武人としての吉保を前面に出したものである。

家康の平定により戦いからは遠い世になってはいても、吉保は兵法を大切に扱い、学問の対象にしていた。

『孫子』の日本語による解説『孫子国字解』(吉川裕氏「二つの『蘐園蔵書目録』―荻生家の蔵書変遷について―」201頁表③・国文学研究資料館共同研究「山鹿素行関連文献の基礎的研究」)や、『素書国字解』(『楽只堂年録』第5、139頁、『松陰日記』「19・ゆかりのはな」。素書は六韜三略と同書)を荻生徂徠に作らせているのなどはその好例である。

さらに宝永4年(1707)7月には、信玄の武略(いくさのかけひき)を継ぎ、家臣を十一の備(そなえ)に編成、絵図を作らせ家伝としており(『楽只堂年録』第7、187頁)、信玄武略への尊崇も窺える。

寿影の前に置かれた文台に載る軍令には、

軍令

法性院殿軍/令二十九箇/條悉在家伝/今令増減新/定軍令畢各/各当守此旨

とあり、ここにも信玄の軍令を尊ぶ吉保の姿がある。

一方「永慶寺殿捧持念仏図一幅」は、裏書に「念仏百万、図式により其の数を填め、装して一幀となし、以て武隆山常光寺に寄す/正徳四年甲午の秋源吉保」とある(常光寺作成の小冊子『曹洞宗 武隆山常光寺』掲載の「観修作福念仏図説」による)。

念仏を唱える度に、5色の画鋲のような一粒一粒を、図式に填めて縁取ってゆくことで作り上げる仏画の一種で、完成品を吉保は装幀し奉納したのである。

奉納の正徳4年は吉保逝去の年。

同年9月5日、前年卒した吉保正室定子の一周忌法要が、吉里采配のもと、甲斐永慶寺で行われた。吉保は江戸にあって参列出来ずじまいであった。

同じ月の27日、持病の発作に襲われた吉保は、甲斐から駆けつけた吉里に看取られ、11月2日に57歳の生涯を閉じる。

つまり念仏図は参列叶わない定子一周忌に向け、「南無阿弥陀仏」を幾度も唱えつつ、菩提を祈った吉保の逝去直前までの姿を伝えるものなのである。

かくして、常光寺には、吉保寿影と仏画1幅が遺ったのである。

 

柳澤吉保寿影(韮崎市常光寺所蔵)


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)

〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。