〈言葉〉と〈行為〉のあいだ ―西山宗因の〈心〉を探る―(尾崎千佳)
西山宗因の生涯と研究史
西山宗因は、慶長10年(1605)、加藤清正家臣の子として肥後熊本に生まれた。青年時代は加藤家家老に仕えていたが、同家改易により牢人し、29歳の寛永10年(1633)、上京して連歌師に転身する。正保4年(1647)、43歳にして摂津中島天満宮の連歌所宗匠に就任したのち、大名・貴顕の要請を受け、連歌師として全国に活躍した。そのかたわら、天満宮近くに構えた向栄庵を拠点として俳諧点業にも従事する。寛文末年から延宝にかかる約10年間(1670~80頃)、宗因流の新風俳諧は全国の俳壇を席巻した。いまから342年前の天和2年(1682)3月28日、78歳で没している。
このたび刊行した『西山宗因の研究』は、宗因を専論とする初めての論文集ではあるものの、その研究史は決して乏少ではない。つとに潁原退蔵『俳諧史の研究』(1933年、星野書店)に「西山宗因年譜」を付した「西山宗因」なる先駆的研究があり、1950年代には野間光辰が「宗因と正方」「連歌師宗因」「新編宗因書簡集」「西山宗因」を陸続と発表し、宗因研究の基礎を築いた。野間による一連の宗因研究は、いま、『談林叢談』(1987年、岩波書店)でまとめて読むことができる。私が研究を開始した1990年代、宗因に言及するほとんどすべての先行研究は、同書所収の諸論に依拠していた。
「若とのばらとあらそふやうなるもおとなげなし」
古稀を翌年に控えた寛文13年(1673)の夏、宗因は、「蚊柱は大鋸屑(おがくず)さそふゆふべ哉」に始まる俳諧百韻(蚊柱百句)を独吟する。藤原定家の古歌「草深き賤(しづ)が伏屋(ふせや)の蚊柱にいとふ煙を立てそふる哉」(拾遺愚草)をふまえつつ、蚊柱を追い払うために燻べるおがくずの煙に、貧楽の境地を象徴させた作品であった。
ところが、翌延宝2年(1674)、これを俳諧の邪道と見た古風側の俳諧作者が、匿名で『しぶうちわ』なる批判の書を出版し、宗因流俳諧の方法を激しく糾弾する事件が起きる。新旧勢力の対立が俳壇に表面化し、門人たちが代理論争を繰り広げるなか、宗因は、「若とのばらとあらそふやうなるもおとなげなし」(阿蘭陀丸二番船)としてあえて反論せず、沈黙を守った。
年少者との無意味な諍いを避ける思慮分別は、連歌の老大家の言としていかにも似つかわしい。この言葉を根拠のひとつとして、野間は、宗因はあくまで連歌師であり、俳諧は余技に過ぎないことを主張した。
宗因年譜と宗因全集
連歌師宗因の門下から、西鶴と芭蕉という二大俳諧師が輩出されたことは、文学史の逆説なのだろうか。後半生の少なからぬ時間を費やした俳諧は、宗因にとって、いったい何だったのか。その心境を探るには、宗因の言葉に拠るばかりでなく、宗因の行為によってこれを検証する必要がある。
『蚊柱百句』を対象として卒業論文を書いた私は、かかる問題意識を抱き、修士論文では潁原年譜の増補改訂に取り組んだ。「西山宗因年譜稿」を『ビブリア』第111号に発表したのは、1999年のことである。2001年には『西山宗因全集』編集委員会が組織され、以後16年間にわたり、編集の実務に携わることとなる。2010年より「西山宗因年譜考証」を編み始めたものの、中途で挫折し、『西山宗因全集 第5巻 伝記・研究篇』には項目のみの年譜を収めるに留まっていた。
年譜考証の目的と方法
2021年3月、再挑戦にあたり、所期の目的を果たすべく、宗因の全行動の解明を年譜考証の第一義とすることを改めて立志する。
宗因に日記はなく、真蹟書簡の現存も豊富とは言えないが、全集編纂によって収集し得た総計49,000句を超える連歌・俳諧の作品こそ、宗因年譜考証の一次資料である。しかし、その網羅編年だけでは作品解題の集成になってしまうだろう。野間『刪補西鶴年譜考証』(1983年、中央公論社)や日野龍夫『服部南郭伝攷』(1999年、ぺりかん社)など、近世文学研究を代表する年譜考証を参照し、その方法と内容に多大の学恩を蒙りながらも、行動の解明という点では不足を感じた。
個々の作品が〈いつ〉成立したかだけではなく、〈どこで〉成立したかに迫らなければ見えてこないものがある。複数の人物の居所情報の編年集成によって時代の動態を複眼的に提示した『近世前期政治的主要人物の居所と行動』(1994年、京都大学人文科学研究所)や『織豊期主要人物居所集成 第2版』(2016年、思文閣)など、歴史学の手法にも学びつつ、作品から行為がたちあらわれるように、連歌・連句についてはもちろん、発句についても能う限りその成立の「場」を復元することに努めた。