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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第9回:柳澤家と甲斐国 ―3本の寿影(その一)一蓮寺本―(宮川葉子)

はじめに

柳澤吉保を知るの第8回では、吉保主催の武田信玄133遠忌を中心に、吉保の信玄への思いを辿った。信玄生誕500年記念として甲州市の恵林寺で開催された講演会(2021年12月8日)の活字化である。

本稿はその拾遺にあたる。甲府市の一蓮寺に奉納された吉保寿影を手掛かりに、吉保の甲斐国での立ち位置を確認するのが目的である。

三幅の吉保寿影

『楽只堂年録』元禄16年(1703)8月26日の条に、次の記事が載る(第4、139頁)。

去穐、画工狩野常信に、吉保が寿影三幅を画しむ、今日、々月、其上に題す(以下論の展開上、番号を振った)、
(1)一幅は、束帯して、太刀を帯、前に文台を置、上に古今和歌集を載す、題していはく〔尾に、吉保と羽林次将と云へる二印を用ゆ〕(〔 〕内は本来割り注、以下同)

仙洞叡覧吉保所詠名所百首の内御長点の歌

あらし吹くいこまのやまの秋の雲くもりミはれミ月そ更行
朝日影さらす手つくりつゆちりてかきねにミたす玉河の里

(2)また一幅は、烏帽子・直垂を著て、小さ刀を指、手に払子(ほっす、獣毛や麻などを束ね柄をつけた高僧用の法具)を持つ、題していはく〔首に新羅三郎廿世後胤と云へる印、尾に吉保と羽林次将と云へる二印を用ゆ〕

汝昰我我非汝/何用分仮分真/腰佩金剛宝剣/掃退野鬼閑神/吉保自題(/は改行)

(3)また一幅は、束帯して太刀を帯、前に文台を置、上に軍令を載す、題していはく〔印、前に同し〕

運筹帷幄/決勝千里/還笑子房錯費工/韜略従来廖廓裏/吉保自題

文台に載置く詞は、

軍令

 法性院殿軍/令二十九箇/條悉在家伝/今令増減新/定軍令畢各/各当守此旨

(1)は文人、(2)は修行者、(3)は武人、と三様の吉保を描かせたもの。さらに(1)は「仙洞」(霊元院)、(2)は「新羅三郎」(甲斐源氏の祖源義光)、(3)は「法性院殿」(武田信玄)との紐帯を各々強調しているのが画賛や押印から察せられる。

原画は「去穐(秋)」、狩野常信に描かせたのであった。それは吉保45歳の元禄15年(1702)にあたる。

その年の4月6日深夜、神田橋の吉保邸は焼亡し、多くの稀覯本や家録「静寿堂家譜」が灰燼に帰した(第3、216頁以下)。その痛手から立ち直る中、吉保は寿影を残すことを企図したらしい。

そして此度、画賛(吉保は「題」と呼ぶ)を染筆したのである。原画完成の約1年後にあたる。

一蓮寺と一条家

鎌倉幕府が開かれ武家に政権が移ろうとしていた平安末期の治承(1177~1181、高倉・安徳)・寿永(1182~1184、安徳・後鳥羽)の頃、甲斐国内では甲斐源氏4世武田信義と、その子一条忠頼が勢力を得ていた。甲斐源氏1世は申すまでもなく新羅三郎義光である。

寿永2年(1183)、一条忠頼は鎌倉邸で誅せられた。頼朝の犯意が見え隠れするが詳細は知れない。

夫の菩提を弔うため、居館跡に夫人が建てた尼寺が一蓮寺の前身という。かく一条家は、平安末期には甲斐国に根を下ろしていた武田と並ぶ旧家であったと知られる。

紆余曲折を経て鎌倉後期、甲斐源氏8世一条時信の時代になった。武田信玄が活躍する200年程前にあたる。

時信は武川十二騎の祖となり、山梨郡稲積荘一条郷に住した。武川衆の柳澤もこのあたりを始発と見なしてよかろう。

因みに一条郷とは後の甲府城の地。天正11年(1583)家康が築城を開始、途中浅野長政(秀吉に重用され甲斐22万石を領した五奉行の1人)等が引き継ぎ、慶長5年(1600)完成したのが甲府城(通称舞鶴城)である。

さて元亨元年(1322)、一条時信は卒し、法名一蓮寺仏阿元貞として邸宅に葬られた。そこに建てられたのが一蓮寺。寺号は法名に因む。

武田信玄の時代、躑躅ヶ崎館を本拠とする城下町南端の砦として重宝されていた一蓮寺も、家康の築城計画により稲積荘蔵田村に移された。現在の甲府市太田町にあたる(以上おもに『系譜』〈『柳沢家家譜集』柳沢史料集成第4巻〉参照)。

一蓮寺本寿影と古今伝受

三本の寿影のうち、(1)の文台に「古今和歌集」を置く画像は一蓮寺に奉納された。

殊更に「古今和歌集」なのは、古今伝受の証しを遺したい吉保の願望の表明か。

吉保が幕府歌学方北村季吟に「古今和歌集」を学び、一人前の歌人と認められたのは、元禄13年(1700)8月27日のこと。『楽只堂年録』に「再昌院法印季吟より、古今の秘訣を伝授す」とあり、同日、伝受書付一式も授かった(第3、36頁)。

それが灰燼に帰し、元禄15年7月12日、再度の伝受を得た。

再発行を得た吉保は、寿影に「古今和歌集」を描かせた。古今伝受と自分は共にあることの標榜と考えたい(古今伝受については、柳澤吉保を知る 第7回:吉保の側室達(二)正親町町子―その2―で詳細をのべた)。

一蓮寺本の画賛

同時に吉保は画賛に相応しい和歌の材料を求めた。その手掛かりが『楽只堂年録』元禄16年(1703)7月2日の次の記事である(第4・127頁)。

吉保、此年比、敷嶋の道に心をよする余りに、身のつたなさをもはからず、天威のかしこきを忘れて、頃日、正親町前権大納言公通卿をたのミ、蜜々に仙洞御所の叡削を願ひ奉りしを、かたじけなくもゆるし思召給ふという事を、公通卿して伝へさせたまふ、

季吟の古今伝受に、吉保は無条件で満足してはいなかった。季吟からのはあくまで地下(じげ)のそれ。いささかでも堂上(とうしょう)和歌の神髄に迫ることを望んでいたのである。

吉保は正親町公通を頼った。公通が吉保側室正親町町子の実父で、以前から堂上方と吉保の窓口であったのは既に述べた(柳澤吉保を知る第6回:吉保の側室達(一)正親町町子―その1―)。

そして仙洞御所(霊元上皇)の添削を許された。吉保は「名所百首」を差し出す。

当該「名所百首」は、『内裏名所百首』(建保3年〈1215〉10月成立の順徳院・藤原定家・藤原家隆等12名の詠を、春・夏・秋・冬・恋・雑ごとに部類した百首歌)の題を用いた吉保詠。

結果、百首の終に「点二十六首内長二」と宸筆が付され返却されて来た。元禄16年7月26日のこと。秋部の「生駒山」、雑部の「玉河里」の題詠が長点であったのである(第4・132頁)。

これぞ吉保が切望した堂上の評価であった。長点の2首程、画賛に相応しいものはない。寿影にそれを染筆した吉保は、一蓮寺に奉納することを考えていた。

一蓮寺本・常光寺本の書誌

話の先取りになるが、本稿冒頭に引いた寿影の(3)、一蓮寺本同様「束帯して太刀を帯、前に文台を置」構図ながら、文台に軍令を載せる1本は、韮崎市の常光寺に奉納された。

『源公実録』(柳沢史料集成 第一巻)、「附録・源公実録 冬」収載「甲州、竜華山御建立之事 附、同国、一蓮寺・常光寺、御画像御納被遊候事、幷、恵林寺之事」(158頁)には、一蓮寺本・常光寺本2本について、他では見ない記事が載る。

だいたい『源公実録』は、元文5年(1740)成立の、柳澤家家老藪田重守(時に77歳)の著作。

吉保・吉里2代に仕え、間近で観察した彼等の姿を記録し若殿(吉保孫・吉里息信鴻〈のぶとき〉)へ謹呈したもの。直接吉保・吉里の指導を仰げず育つ信鴻へ、故人の思想を伝え、柳澤家存続の土台にさせる目的であったらしい。

近侍故に知り得た吉保の心の動きや呟きなども収録され、『楽只堂年録』とはまた異なった史料を提供してくれる。

そこに、まず2本の形状と寸尺が「御掛地 長七尺八分 幅三尺五寸三分」とある。「掛地」は「掛字」の書損で「掛け軸」の意であろう。

「長七尺八分 幅三尺五寸三分」は、縦217センチ、横98センチに相当。「御二幅共、同御仕立也」ともあり、2本の表装が同一であったのが知られる。

表装は、「御表具上下白地雲やり金入/中紺地若松割菱御紋金入/一文字風帯茶地若松割菱金入/御軸したん/御内箱島桐きてうめん縁金粉いつかけ/御外箱溜ぬり鉄錠前」(/は改行)とあり、上・下の表具は白地に金入の雲やり・仲廻しは紺地に若松と家紋の割菱文様・一文字と風帯は茶地に金入の若松割菱・軸は紫檀・内箱は縞桐で縁は金粉塗装・外箱は溜塗りにし錠前を付設するなど細かい指示に及ぶ。

そして一蓮寺・常光寺に関し、「左之両寺ハ、御本国、其上、御由緒御座候ニ付、永慶寺様、深キ御思召ニ而、御画像御納置被遊候」と2寺に奉納する謂れが語られる。

永慶寺様(吉保。重守は『源公実録』中、吉保をかく呼ぶ)にとって、甲斐は先祖の国(本国)、深き思し召しがあっての奉納だという。

更に「右、御画像、常々、御箱之侭、安置。若、上下誰人ニよらす、拝し申度と申面々有之は、拝させ可申旨、御意ニ付、則、両寺へ其趣申渡ス」とある。

日常は箱内に安置し、拝観の申し出には、身分の上下にかかわらず応じるよう両寺へ申し渡したというのであるから、念の入った通立である。

かくして一蓮寺本は、武川十二騎の祖一条時信が、山梨郡稲積荘一条郷に居を定め、そこで卒し、そこに建てられた、柳澤家としては祖先中の祖先として、崇拝を怠れない寺に贈られた1本であったのである。

一つ追加しておきたい。

正徳元年(1711、4月25日改元。正確には宝永8年)は、吉保54歳、吉里25歳の年。吉里は前年(宝永7年)5月5日に初入国、甲府で迎える初めての新年であった。

その1月21日、吉里側室佐藤氏三保子(御城坊主佐藤宗巴女)が、甲府城内で男児を産んだ。今でいうハネムーンベビー(1710年は8月が閏)で吉里には初男児。

2月4日、1週遅れの七夜賀宴をなし、江戸にある吉保が多門と命名した。しかし7月18日夭折し、一蓮寺に葬送された。

現在一蓮寺本の拝観は、コロナウイルス感染防止のため、停止中である(2021年12月9日現在)。

ただそこに吉保の孫多門が、祖父吉保の寿影と共に留まり続けているのは、柳澤家の甲斐国での立ち位置の確保を語る要素となろう。

〔写真3葉〕
①一蓮寺正門

②一蓮寺全景

③一蓮寺本柳澤吉保寿影(甲府市一蓮寺所蔵)

なおこれに関する論考として『柳沢吉保の由緒と肖像―「大和郡山市所在 柳沢家関係資料の関する研究」報告書―』がある。当該報告書の存在は、柳沢文庫学芸員越坂裕太氏のご教示による。

 


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)

〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。