キリシタン文献をMissionary Linguistics(宣教に伴う言語学)の視点から読み解く―『キリシタン語学入門』の刊行―(岸本恵実・白井純)
イエズス会の宣教とキリシタン版
いまから400年ほどまえの16世紀後半から17世紀前半にかけて、信長・秀吉・家康の活躍したキリシタン時代は大航海時代のただなかにあった。ポルトガルやスペインが世界各地に版図を拡大し、商人や宣教師がアフリカ・アジア・アメリカ大陸で活動するその時代、宣教師たちはカトリックの教義を現地語で宣教するという難事業に取り組みつつ、極東の島国、日本へも続々とやってきた。当時の日本は長く続いた戦乱によって混乱していたが、高度に発達した社会と文化を持ち、日本語という一つの言語が広く通用していた。そのため、日本はいくつもの言語が入り乱れる地域に比べれば宣教先として適していたことだろう。しかし、その日本語は宣教師たちの母語とは全く異なるタイプの言語であり、それを習得し運用するためには大きな困難があったに違いない。
16世紀半ばに鹿児島に上陸したイエズス会士フランシスコ・ザビエルの宗教的な情熱と、それには釣り合わない語学的な知識の不足には同情を禁じ得ないが、イエズス会はそれから半世紀を現地語である日本語の学習に費やし、16世紀末に至ってその成果を辞書や文法書などの語学書として残しつつ日本語やラテン語による宗教書を相次いで出版した。それがキリシタン版である。天正遣欧使節がヨーロッパから持ち帰った印刷機と金属活字を用いた美麗なキリシタン版は南蛮文化を象徴するものとして日本人の注目を浴びたに相違ないが、キリスト教禁教によってその活動は断絶され、その後の弾圧によって多くが散逸した結果、現在では30点あまり(断簡を含めれば約40点)が世界各地の図書館に貴重書として大切に保管されている。
そのキリシタン版の成立には、いくつかの必然と偶然が複雑に関わっている。イエズス会宣教師たちは日本人への直接的な説法のため当時の話し言葉を学習したが、同時に、知識のある人々を取り込むために規範性の高い書き言葉による宗教書の出版も試みた。神(キリシタン時代の用語でいうと「でうす」)の言葉をぞんざいな日本語で表すわけにはいかず、教養水準の高い日本人が親しむ仏教や儒教の経典に匹敵する権威を保ちつつ多くの信徒を獲得するためには精度の高い活字印刷によって大量に出版する必要もあった。現存するキリシタン版の辞書や文法書には宣教師たちが編集した先行する写本に基づく部分を認めるが、そうした長期間に及ぶ外国人による客観的な日本語の学習と、その成果を実践的に利用した宗教書の出版事業との間には密接な関係がある。日本語史研究にとってキリシタン版が当時の日本語の多面的な姿を観察するための第一級の資料であることは改めて言うまでもないだろう。