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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第8回:吉保の武田信玄への思い―吉保執行信玄133回忌を中心に―(宮川葉子)

はじめに

柳澤吉保を知るの第7回では、吉保側室正親町町子を、公家文化を柳澤家にもたらした人物として探った。

今回は、残る4人の側室と子息・子女を扱う予定であったが、変更し、吉保執行の武田信玄133回忌を中心に、柳澤吉保・吉里の甲斐国経営を見ておく。

本年は信玄生誕500年。様々なイベントが開かれる中、恵林寺本堂での講演会もその一端で、『楽只堂年録』の翻刻・校訂をなした私に講師の依頼があった。生誕500年は、本年を擱いてはなく、旬を逃さない意味で、講演を記事にした。

因みに恵林寺は、甲州市にある臨済宗妙心寺派の古刹で信玄の菩提寺。

天正10年(1582)3月、織田信長が武田勝頼責めで火を掛けた際、時の住職快川紹喜(かいせんじょうき)が「心頭滅却すれば火も亦涼し」と唱え、火定(かじょう、火中に身を投じて死ぬこと)したことでも有名。さらに境内には柳澤吉保夫妻の墓所もあるのである。

近くには勝沼の葡萄園が広がり、その後方には大菩薩峠・甲武信(こぶし)岳が聳える。

柳澤家とは

「門葉譜」(『柳沢家譜集』柳沢史料集成 第四巻)は、柳澤家を次のように記録する。

・武川十二騎ハ甲州武川郡十二ケ村ニ住居、信玄公ノ一族ナリ
・年頭ノ為御礼 信玄公ノ館江出仕 年頭ノ御礼申上 弓一張宛被下由
・平日ハ右村々ニ郷士ニテ住居 御陣ノ時 供奉セシナリ
・武川郡村々(十二村略)、馬場村に住スレハ馬場ヲ名乗 柳沢村ニ住居スレハ柳沢ヲ名 ノル

武川(むかわ)は甲斐駒ヶ岳の北麓、釜無川(かまなしがわ、富士川上流)右岸地域。そこに信玄の一族として、12騎の郷士(平時は農業、戦時は軍事に従う武士)団がいた。彼らを武川衆と呼ぶ。年頭には信玄屋形に詣で祝儀に弓一張を頂戴していたという。

武川では、姓を居住する村の名で呼んだから、柳澤は柳澤村に住まったことに因む呼称ということになる。

とはいえ、吉保の父安忠は鉢形城(はちがた、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形)で生まれ、綱吉に仕えて江戸住い。吉保は市ヶ谷に誕生し、父子共に甲斐とは無関係で過ごして来た。

それにも関わらず吉保にとって、武田家は輝かしい一族であり、甲斐は誉れ高い土地であり続けた。

柳澤家の甲斐国統治概観

宝永元年(1704)12月21日、吉保48歳は甲斐を拝領した。拝領の経緯は後述するが、定府(じょうふ、参勤交代しない江戸詰の大名)のため赴任はしなかった。

宝永6年(1709)6月3日、1月の綱吉薨去を承けた吉保は致仕。嫡子吉里(生母飯塚氏染子)が家督相続。同時に安通(生母正親町町子)・時睦(ときちか、生母兄に同じ)は、新田1万石宛てを分与された。吉保52歳、吉里23歳、安通15歳、時睦13歳。

宝永7年(1710)5月2日、吉里は国許(くにもと、大名の領地、ここでは甲斐)へ発駕(はつが、駕籠での出発)。吉里は参勤交代する立場となった。

甲州街道添いに甲斐へ進んだこの折の旅日記が、「甲陽駅路記」(宮川葉子『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』2012年・青簡舎)である。

吉里は旅の備忘録だと言うが、風土記・名所記を古典を引用しつつの取材は、感性に満ちた吉里の若々しさがあふれる。初日の宿は横山(八王子)であった。

5月3日、小仏峠(こぼとけとうげ。八王子と相模湖の境の峠。麓に小仏関があった)越え。冨士山の雄姿に感動。宿は猿橋(さるはし。大月市桂川に架かる橋脚のない木橋)。

5月4日、笹子峠(山梨県東部の甲州街道の難所)越え。天目山栖雲寺(てんもくざんせいうんじ、知恩院八宮良純法親王〈後陽成院第13皇子〉謫居の地)に立ち寄る。宿は勝沼であった。

5月5日、旅の最終日。石和に出る。鵜飼山遠妙寺(ていしざんおんみょうじ)の怨念にまつわる縁起や、「伊沢」は「経字石」を水底へ入れ、鬼心を和らげたのに因み表記を「石和」に改めた経緯などを記録する。

酒折(さかおり)へ向かう。天神と若宮の二社には、日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られていた。「甲斐国に至りて、酒折宮に居(ま)します」で始まる、『日本書紀』収載の「新治筑波」(にいばりつくば)の連歌を引用。

そして3泊4日の旅は、午刻(うまのこく。正午)、甲府城に到着して終了した。

こうして甲斐守吉里は甲斐統治に励むが、享保9年(1724、将軍吉宗の時代)3月11日、大和郡山へ転封となる。

結果、柳澤家の現地に下っての実質的甲斐統治は、14年弱に過ぎなかったのである。

振り返ると、吉保の拝領前の甲斐は天領(幕府直轄地)。吉里転封後は再び天領に戻る。即ち吉保・吉里二代限りの天領拝領という希有な例であったのである。

武田家末裔への配慮

元禄13年(1700)12月27日、吉保43歳であった。『楽只堂年録』に次の記事がある。

武田信玄の曾孫、織部信冬、落魄の躰なるを聞て、去る比より、下屋敷に招置て、養ひはごくむ、頃日、又、吉保、懇に願ふによりて、今日、信冬を召出され、知行五百石を下され、寄合組に仰付らる(第三、58頁)、

信冬については、『新訂寛政重修諸家譜』第19、義光流武田支流武田の項冒頭(巻第千二百三十六)に、

家伝に、武田信玄が男次郎信親(のぶちか、勝頼兄)海野を称す。後盲目となりて龍芳と号す。その子信道甲斐国長圓寺の養子となりて道快と号す。その子を信正といふ。信玄が氏族たるによりて、台徳院殿(秀忠)の御とき父子共に松平丹波守康長にめしあづけられ、後伊豆国大嶋に流さる、寛文三年八月十一日、信正赦免をかうぶりて江戸にかへり、内藤帯刀忠興がもとに寓居す、信興(信冬)は其男なりといふ
とある。

略系図は下記となる。

秀忠の武田残党徹底排斥の他家お預けや島流しであるが、『寛政譜』のかぎりにおいて、信正・信冬父子が預けられた松平康長(戸田)や、赦免後に寓居に及んだ内藤忠興と父子の関係は辿れない。

さて吉保は、武田信冬(当時28歳)が落ちぶれ、日々の生活にも困窮していると聴き、下屋敷六義園に引き取り面倒を見てやっていたが、最近、綱吉に上申、取り立てを願った。結果召出された信冬は、甲斐八代内に知行500石を拝領、寄合組に仰付られたというのである。

信玄の一族として、そ末裔の零落を見過ごせない思いもあったであろうが、それよりも、吉保の、先祖に対する尊崇の念の強さを見る。

松平の称号拝領

元禄14年(1701)11月26日、吉保邸に御成の綱吉は、吉保に言う(理解が容易いよう口語訳にした)。

大猷院家光が安忠を綱吉に配して以後、安忠は数十年の奉公をなした。吉保は若輩の時から綱吉に仕え、学問の一番弟子に仰せ付けられ、あらゆる点で綱吉の思いを裏切ることなく誠実に奉公し抜擢されて来た。まさに奉公人の鑑と言える。

そこで、松平の称号と、諱の一字「吉」を与え、以後は一族と思う。(中略)吉保はそれまでの名のり柳澤出羽守保明を、御前において松平美濃守吉保と改名した(『楽只堂年録』第三、152頁)というのである。

530石から出発した柳澤吉保は、この時43歳。9万2000石の老中筆頭であった。

甲斐拝領

宝永元年(1704)12月5日、綱吉は綱豊に、養君となすことを申し渡した(『楽只堂年録』第五、140頁)。甲斐中納言綱豊は綱吉の兄の子。甥である。吉保47歳時であった。

綱吉には延宝7年(1678)誕生の男児徳松がいた。しかし5歳で夭折。以後男児に恵まれず、60歳を目前に、綱吉は継嗣問題で悩み続けていた。そこに全身全霊で奔走したのが吉保であった。

同月21日、綱吉は御前の吉保に言った(口語訳を括弧に入れ示した)。

「世継決定は国家的大事。その全段階を一人でとりまとめ、綱豊を継嗣に定めた手並は、並みな賛辞では間に合わない見事さであった。綱豊の領地甲斐は、幕府直轄地。滅多な者に渡せる土地ではないが、その方にとっては祖先の国である。これまでの滅私奉公ぶりを勘案し、下賜することに決めた」と。

そして石高の書付を袂から取り出した綱吉は、手づから吉保に手渡す。そこには、「都合、拾五万千貳百八拾八石七斗三升七合」とあった。

桂昌院(綱吉生母)も、「吉保の常々の誠意ある奉公ぶりは無論のこと、この度の継嗣決定に至る苦労を思えば、どれほどの国を与えても十分ということはない」と言い添えた。

かくして甲府は吉保に下され、吉保は祖父の代から未踏の甲斐国に錦を飾ったのである。

吉保の甲斐経営(『楽只堂年録』巻六~巻七)

(一)
前年年末に拝領した実際の請取は、翌宝永2年(1705)2月19日、重鎮7人によってなされた。

直後の28日、家老が名代で恵林寺に参詣し信玄牌前に奉納。武田の一族として早速その菩提寺に挨拶したのである。

3月12日、拝領の駿河の地は、物成(ものなり、年貢の上がり)が劣勢につき返上、甲州内のみで山梨・巨摩・八代三郡を賜る。かくして名実共に甲斐国主になった。

そして4月12日、武田信玄の133年の遠忌執行になるが後述する。

続く22日、家老は名代で田野景徳院に参詣、武田勝頼以下従死の士・女輩に香奠を供した。

閏4月9日、家老を青木村常光寺に代参させ、吉保祖先牌前に香奠を供している。

青木村の青木氏は、柳澤家の宗家。詳細は省くが、かつて柳澤村にあった柳澤家の菩提寺は、相次ぐ水害等で寺運傾き存在すら覚束なくなり、青木家の菩提寺に柳澤家のそれを兼ねさせていたらしい。常光寺への代参は、そうした背景あってのことであった。

8月19日、吉保の、甲斐での菩提所建立希望が聞き届けられ、21日には、山梨郡岩窪村躑躅ケ崎(現在の護国神社の地)に新寺建立の杭を立てている。甲斐国主となった今、やはり先祖の地での菩提所は必須であったのである。

(二)
宝永3年(1706)、吉保49歳。

7月29日、甲州金(領内の金山開発を進めた武田氏により鋳造され、甲斐一国に限り通用した金貨。所謂甲金)の改鋳許可がおりる。

9月11日には、塩山産の松茸を綱吉に献上。

28日、甲州の屋形上棟に能を興行。祝儀を甲斐国中の寺社へ恵与している。

10月15日、甲州産の新米を祝い能を興行。柳澤家版新嘗祭であった。

12月1日、吉里は恵林寺へ大般若経六百巻を寄付。

宝永4年(1707)、吉保も50歳を迎えた。吉里は21歳である。

5月21日、甲府城中に毘沙門天(仏法を守護する神。北方世界を守護。多聞天)社を建立する。信玄の毘沙門天崇拝の継承らしい。

7月12日、信玄の武略を継ぎ、家臣を十一備(そなえ、防備態勢)に編成、絵図にして家伝とした。これも吉保の信玄崇拝の一面といえよう。

そして同月19日、甲府城内の稲荷社・毘沙門社に額を掛ける。額表に「従四位下行左近衛権少将源吉保敬書」「宝永四年丁亥七月十九日」の二行を書いた。甲府城を請け取って1年半、ようやく吉保の思う城の姿が出来上がったと言える。

昨年来の安泰は長く続かなかった。11月23日、所謂宝永の富士山大噴火が勃発。それが引き金のように、綱吉と吉保の時代の終焉がやってくる。

(三)
宝永5年(1708)、吉保51歳。12月に建設中の新寺が完成。龍華山永慶寺と名付ける。ここに吉保は、甲斐国主に相応しく甲斐での菩提寺を手にしたのである。その年末、綱吉は不例に陥る。

そのまま越年。宝永6年(1709)不例の綱吉に代わり、新年行事は綱豊(家宣)がなすうち、麻疹(はしか)が見つかった。

一度は快方に向かい、酒湯(ささゆ、麻疹や疱瘡が治まった後に浴びさせた酒を混ぜた湯)も浴びた。

ところがその直後、容体が悪化。1月10日、駆けつけた吉保が、和紙に浸した薬湯を差し出すのにも反応はなく、呆気なく64歳の生涯を閉じるのである。

吉里の甲斐経営

(一)
綱吉薨去を承け、宝永6年6月3日、吉保52歳は隠居、吉里23歳が家督を相続した。

6月18日、吉保は正室定子を伴い、下屋敷六義園へ移徙する。そしてこの時を以て、吉保の公用日記『楽只堂年録』の記事は終わる。

それを承けて書き継がれていったのが、吉里の『福寿堂年録』である。以下はおもにそれに依る。

6月29日、吉里は伊勢守を甲斐守と改名。

10月10日、吉保は黄檗山悦峯和尚を導師に剃髪、保山元養と号した。

11月22日、吉保は恵林寺に信玄寿影堂を上棟。甲斐国主退任を、一族の長に報告する意味あいであったか。

宝永7年(1710)になった。吉保53歳、吉里24歳である。

4月12日、恵林寺では、信玄影像が新築なった寿影堂に遷座。

同じ月の21日、上使として老中井上正岑が来臨、吉里帰国(領国甲斐へ向け帰ること)の暇を告知していった。吉里は定府ではないのである。そして5月になった。

5月2日、午前6時、吉里は神田橋の本邸を後に、国許へ発駕。以後甲州街道添いに、3泊4日をかけ甲府に到着した折の旅日記が「甲陽駅路記」であるのは既述した(本稿二、柳澤家の甲斐国統治)。

7月4日、江戸では吉保が悦峯和尚を招請、永慶寺開山第一祖とし、山門に吉保自筆の額を懸けた。これで永慶寺は黄檗宗派となったのである。

閏8月22日、永慶寺内に霊樹院(吉里生母飯塚氏染子)の石塔を建立。370石の領地を寄進した。染子が吉里を生まなかったら、今の柳澤家はない。吉保の染子への謝意は深かったのである。

(二)
正徳元年(1711)。吉保54歳、吉里25歳である。

1月22日、甲府城内では佐藤氏三保子が男児出産。吉保が多門と命名。

4月2日、4つ時過(午前10時頃)、吉里は甲斐を出発。3泊4日の旅を経て駒込下屋敷(六義園)に到着。吉保・定子に約1年ぶりの対面を果たした。

5月1日、正徳に改元。

7月18日、多門が夭折し甲府城下の一蓮寺へ葬送。一蓮寺には、吉里奉納の、狩野常信筆吉保肖像(絹本)が蔵されているが詳細は別稿に譲る。

正徳2年(1712)、4月26日、江戸を出発、28日に国許到着。

10月14日、6代将軍家宣が48歳で薨去した。宝永6年(1709)5月の将軍宣下以降、3年半の将軍職に過ぎなかった。在任32年に及んだ綱吉と比べるべくもない。

正徳3年(1713)になった。吉保56歳、吉里27歳。参勤の年である。

4月3日、朝6つ時(午前6時)甲府発駕、勝沼で昼休し猿橋泊、4日、上野原で昼休し八王子泊、5日、府中泊、6日、4つ半時(午前11時頃)前に、駒込下屋敷に到着。

5月26日、吉保は江戸の菩提寺平安山月桂寺の仏殿を建立。ここには父安忠が眠るのである。6月18日には入仏法会を行った。

9月4日、定子が泄泻(せっしゃ、下痢)を煩い重篤に。由里は駒込屋敷に一宿し看病したき旨の願書を提出。その甲斐もなく翌5日、定子没。54歳。

9日、吉里は、定子を永慶寺に葬送したき旨の書付を提出。これは吉保の意向であったと思われる。

甲斐国主に至った吉保正室、現甲斐守吉里嫡母、さらには武川衆出身の曾雌氏定子を、甲斐に葬るのは信玄の一族であることの堂々表明でもあった。

13日の夜6時頃、定子(法名真光院殿海月映珊大姉)は永慶寺に向け六義園を出て、17日、永慶寺に着いた。以後葬礼や法要がなされて行く。

10月3日には、黄檗山から悦峯和尚も到着。定子の法事を執行した。但し吉保も吉里も江戸。永慶寺での法要を取り仕切ったのは、城代家老達であった。

(三)
正徳4年(1714)、吉保57歳、吉里28歳。

2月9日朝6つ半時(6時半頃)江戸出発。12日、巳の刻(午前10時)甲府城着。13日には、早速定子の葬地永慶寺に参詣している。

3月25日、紫玉が龍華山真光庵に入院。紫玉の素性は未詳ながら、吉保・吉里は定子のために永慶寺内に塔頭真光庵(山号は龍華山)を開創、そこに住持として迎えたのが紫玉であったらしい。

4月5日、真光庵に定子の位牌を安置、紫玉は八十八仏の供養を執行している。

7月27日、真光庵へ毎年米三十俵充ての寄進を決定。

9月5日、真光庵での定子一周忌法要が結願した。

一区切りついた同月27日、吉保は持病の癪積の発作に苦しみ、御殿医の久志本常勝が治療を開始した。

しかし治療の効果はなく重篤度は増大。

そこで9日、吉里は異腹の弟経隆を名代に、出府して看病したき旨の願書を提出。許可を得ると早速馬に跨がり、11日の夜10時頃には駒込屋敷に到着した。

重篤ではあっても、気力は残っていたらしく、吉保は吉里に直接遺言。24日には、吉保撰述「常憲院様御実記」(綱吉の1代記)1部30冊を寛永寺本坊へ奉納することも出来た。

そして11月2日、未の上刻(午後2時頃)、吉保57歳は死出の旅へ発った。法名永慶寺殿元養大居士。

(四)
翌3日、吉里は2種の願書を提出。1つは、吉保の遺骸を永慶寺へ葬りたき旨、1つは吉里帰国したき旨であった。

5日の7つ時過(午前5時頃)、吉里は父の遺骸を迎え取るため国許へ発った。7日昼8つ時過(3時半頃)に着城。

それを待つように8日夜8つ時(午前2時)、吉保の棺は真夜中の六義園を出た。そして12日正午、甲府城追手門外に到着。

生前一度も目にすることのなかった甲府城を、こうして吉保は初めて見た。その後、吉里が付き添った棺は、龍華山永慶寺に入った。

14日申の刻(午後4時)、吉里は紫玉を導師に、永慶寺で葬送を執行。石槨(せっかく、石作りの棺を入れる外箱)の蓋の内に銘文を彫り付けた。

そこへ黄檗山悦峯和尚が到着。15日から21日まで、永慶寺で悦峯による追善法要が営まれた。

24日には、吉保の顔像安置料として、吉里は恵林寺に毎年米五十俵の寄贈を決める。

29日、悦峯和尚執行で吉保四七日の法事執行。

12月2日、吉保の初月忌。吉里は永慶寺に参詣すると同時に、恵林寺で法事を執行した。

5日は、吉保五七日のため、この日から翌日まで永慶寺で法事を執行する。

6日、吉保五七日の追福和歌会興行、懐紙短冊を牌前に供す。以下の信玄133回忌もそうであったように、吉保・吉里父子は、追福和歌を詠じるのを習わしとしていたようだ。

18日、明後日の吉保七七日のため、この日より永慶寺で千仏供養法事執行。こうして七日七日の忌日が大切に守られいった。

武田信玄百三十三年遠忌

宝永2年(1705)4月12日、『楽只堂年録』(第六、3~4頁)に次の記事がある。吉保は48歳。

法性院殿の百三十三年の遠忌なるによりて、甲州の恵林寺にて、去る十日より今日   まで、二夜三日の法事を執行ふ、牌前に供せし和歌幷に説禅等の語、こゝに記す、

法性院殿百三十三回忌
追福和歌 左少将源朝臣吉保

百あまりみそちミとせの夢の山
かひありていまとふもうれしき

追福和第一句「百」を「もも」と訓むのは、正親町町子の『松陰日記』(宮川葉子『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』2007年・新典社)「廿一、夢の山」による。

甲斐で「夢山」(ゆめやま)は愛宕山を指し、『能因歌枕』にも見られる歌枕。それを詠み込んだ勅撰歌はないが、細川幽斎が小田原合戦からの帰途立ち寄り詠んだ一首が残る。

さらに「夢山」は、信虎が信玄誕生にまつわる瑞夢を見たことによる命名との故事もある(以上『ウィキペディア』)。

ただ吉保詠の意味は、「133回忌を迎え、夢のように遙かになった往時を偲ばせる信玄公。その菩提寺恵林寺を、綱吉様に仕えた甲斐あって、国主として弔問できるのは何と嬉しいことか」といったあたりであろう。

吉里大和郡山へ転封

吉里の実質統治は、宝永7年(1710)5月初旬の開始であった。以後14年弱を経た享保9年(1724)3月、吉里38歳は大和郡山へ転封となるのである。吉里は主人不在となる永慶寺と、そこに眠る両親の処遇に悩む。

それは元禄5年(1692)5月9日に遡る。寛永寺での家綱(4代将軍)の法会終了後、寺社奉行を通し発令されたのが「新地寺院創立停禁令」であった。新地は新しく入手した領地のこと。

即ち、永慶寺は新領地に開創された、禁令に抵触の可能性ある存在であった。勿論吉保は開創にあたり、手順を踏み幕府に願書を提出、許可を得ていた(本稿六、吉保の甲斐経営)。しかし、吉里は危惧の念が去らない。

それは、綱吉の寵愛を独占、栄耀栄華を欲しいままにしたと見る世間の、吉保への誹謗中傷を回避せねばならない点にあったと思しい。

結果、吉里は永慶寺の破却と、恵林寺への両親の改葬を決めた。

3月24日、吉里は恵林寺に、菩提寺を取り払うにつき、永慶寺殿吉保と真光院殿定子の両遺骸の改葬を依頼する旨の書簡を出した。

4月12日、7つ過(午後4時頃)、吉保と定子の柩は、永慶寺を出発、夜8つ半過(夜中の3時頃)恵林寺仏殿へ到着。改葬の式を修し埋葬された。

従った供は、目見得以上56人、その外与力同心であったという。

永慶寺の後日談

こうして甲府の永慶寺は取り払われたが、永慶寺そのものは、吉里の移封に際し、大和郡山城下に「龍華山永慶寺」として、新たに建立され今に至る。

墓所には、柳澤7代保申(やすのぶ)・8代保恵(やすとし)・9代保承(やすつぐ)が眠り、寺の堂内には吉保・定子の木像が安置されている。

因みに、吉里以下6代までと、正親町町子とその腹の2男児は、江戸市ヶ谷の月桂寺へ埋葬されている。

今回のコラムは、12/8(柳澤吉保公の命日)、山梨県甲州市にある武田信玄の菩提寺乾徳山恵林寺において合同会社和の杜さん主催で開催された講演「柳沢吉保の武田信玄への思い」(武田信玄公生誕500年記念)の内容を宮川先生にまとめていただいたものです。
和の杜 | (c-s-value.jp)

*宮川先生がTV出演されました。今回の特集「六義園」について、『楽只堂年録』の記述をもとに、この庭園に込められた柳澤吉保の思いを語っておられました。
「新 美の巨人たち」2021/12/4 テレビ東京系全国ネット 22:00
2021/12/11 衛星放送BSテレビ東京 23:30


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。