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出版部

柳澤吉保を知る 第5回:吉保の側室達―(一)飯塚染子―(宮川葉子)

吉里誕生

吉保には側室が6人いた。最初が貞享4年(1687)に継嗣吉里を生んだ飯塚染子である。

吉保が無嗣絶家を免れ、柳澤中興の祖となり得たのは、ひとえに吉里誕生と無事な成長に依る。染子は男児3人、女児1人をなしたが、吉里以外は4歳未満で早世。吉里のみ残ったのであるから、柳澤家の好運も危うい確率にあった。

大切に育てられた吉里を、綱吉は私物(わたくしもの)のように愛し吉里も充分応えた。たとえば吉保邸御成の際には、学問好きな綱吉に応え、漢籍の一節をよどみなく素読。能に目のない綱吉のため、ワキを演じる。褒美に授けられた能装束の多くは、身長124センチの綱吉のおさがりと思しく、高貴人の肌に触れた衣類拝領を名誉とした当時、相好を崩して吉里に下げ与える綱吉が浮かぶのでもある。

しかも『源公実録』(正式名称は『永廟御実録』。柳沢史料集成第1巻、柳沢文庫保存会、平成5年3月刊)は、元禄14年(1701)11月26日の綱吉の発言として、「伊勢守を御聟ニ不被遊、御一生之御分別違ひと被為思召候」(「常憲院様、厚キ御思召之事」〈『源公実録』春〉)を載せる。

『源公実録』の発言

元禄14年11月26日は、柳澤家にとって極めて慶賀すべき日で、『楽只堂年録』も大幅に紙幅を割く(第3、149頁以下)。吉保父子4人(吉保・吉里・町子腹の経隆・時睦)に松平の称号が与えられ、将軍の一族と見なされることになった上、吉保・吉里は、綱吉の諱の「吉」字を拝領、保明(やすあきら)を美濃守吉保に、安貞を伊勢守吉里と改めたからである。

一方『源公実録』は、藪田重守(1664~1747、阿波市正白鷗)著。藪田家は柳澤家の家老職を勤めた家筋で、重守息里守(伯耆市正)は吉保の6女増子(生母祝園閃子〈ほうそのとらこ〉)を室にしている。

その重守が、臣下の目で捉えた積年の吉保像をまとめ、吉保孫信鴻(のぶとき)に献上したのが該書。「常憲院様、厚キ御思召之事」(綱吉の恩寵)は、第1項に置かれる綱吉の発言である。

「伊勢守を御聟ニ不被遊」の「伊勢守」は、伊勢守吉里と名乗を改めた吉里。綱吉は吉里を聟にしなかったのを、「御一生之御分別違ひ」(生涯の落ち度)と歎いたのである。

もっともこの発言は『楽只堂年録』には収録されておらず、ごく側近の藪田重守だからこそ知り得た内容を手控えておき、自らの著書に忍ばせた裏話が推測されるのである。それほどに綱吉の寵遇を得た吉里を、世間がおとなしく見過ごすはずもなかった。

流言飛語の誕生

綱吉の寵遇に下種(げす)の勘繰りがなされ、興味本位な「脚本」が生まれる。「兼山麗澤秘策」「柳澤騒動記」「日光邯鄲枕」「護国女太平記」「三王外記」などがその代表。

跳梁跋扈し続けた「脚本」の要点は、吉里を綱吉の落胤だとする点にある。その必須条件は染子と綱吉の関係成立の時期と場所。一つは、染子の御城勤務時であり、一つは、綱吉の吉保邸御成時というものである。

前者。飽きたからと、綱吉は染子を吉保に払い下げた。落胤を孕んでいると知った吉保が綱吉に告げると、「よきように計らえ」との返答。月満ち吉里が誕生、吉保継嗣として、落胤故の遠慮も手伝い大事に育てたというもの。

後者。綱吉の吉保邸御成は享楽図そのもの。吉原を再現した吉保は、遊女の中に染子を紛れ込ませた。そして綱吉の目に留まったのを確認すると枕席に侍らせた。結果誕生したのが吉里というもの。

流言払拭の試み

行儀悪い、興味本位な流言である。

まず染子に江戸城勤めの経験はないから、綱吉の寵愛云々はあり得ない。後述するように、染子は吉保生母(了本院、佐瀨津那子、本名きの)の侍女であった。

次に、綱吉の初御成時点で吉里は既に5歳。吉原ごっこ云々とは無関係である。

『楽只堂年録』に克明なように、御成の大半は、綱吉や吉保お抱えの学者達でなされた勉強会。具体的には、文教政策を採った綱吉らしく、綱吉本人や学者達の漢籍講釈・議論、時に日本の古典籍(「源氏物語」「徒然草」「古事記」)講釈。それが終わると謡曲好きな綱吉の演能。随行の幕臣や吉里も盛り立てて謡い舞ったが、享楽とは対極にある。

流言に対し柳澤家も言われっぱなしではなかった。系譜改竄という逆襲に出たと思しい。

『楽只堂年録』貞享3年(1686)2月9日の条(第1、25頁)には、「申の下刻、家の女房飯塚氏、吉保が男子を生り、十日の明六つ前に件の男子死す」とある。

一方、「万歳集」(歴代家族を生誕順に列記した最も私的な過去帳。『柳沢家譜集』柳沢史料集成第4巻収載)には、「御長男様 御法号不詳 御早世 御葬地不詳 貞享三丙寅年二月九日 同十日御逝去」とあるが、生母の記載がない。

さらに「門葉譜」(嫡男以外の子女の詳細な記述、即ち子女の記名・誕生日・生母の出自・略系まで示す私的系譜で史料的価値が高い。『柳沢家譜集』同上収載)には、吉保の「女子」として、「貞享三年丙寅二月九日生、同十日、早世、実母飯塚氏染子 嫡母真光院殿曾雌氏(吉保正室定子)」とあり、これによると染子は「万歳集」と同年同月同日に、男児ならぬ女子を生んでいたことになる。

ところで染子には、『故紙録』と名付けられた参禅録があり(『柳澤吉保公参禅録 勅賜護法常應録』〈永慶寺・昭和48年3月〉収載)、そこには4人の子をなしながら3人早世、育ったのは吉里のみであった無念さが語られ、参禅に至るきっかけが判る。従って仮に貞享3年2月9日誕生し早世した子が染子腹なら、5人の子をなしたと明記して然るべきはずである。

ささやかな逆襲

元禄15年(1702)4月6日、神田橋の吉保邸は全焼、多くの貴重書が灰燼に帰した。『楽只堂年録』の前身「静寿堂家譜」も同然であった。

貴重な記録類のいち早い復元を期し、柳澤家のお雇い学者荻生徂徠が中心となり、諸家から文書を拝借、新たに作成したのが『楽只堂年録』と「万歳集」「門葉譜」等の家譜類。

一方前述したように、前年の元禄14年、松平の称号と諱の一字を拝領した柳澤家。その折、吉里を聟に出来なかった歎きに知られるように、綱吉の吉里寵遇を、落胤に理由を求める世間の不穏な囁きは、徂徠の耳にも達していたと推測される。

よからぬ噂の払拭には、吉里誕生前に、染子が吉保の子をなした証拠を示すのが最も効果的と判断され、家譜類の加筆がなされたようだ。

記録類再建が急務の中での加筆故、生母の失念、男児と女児を誤る矛盾などの弱点が露呈してしまったが、それも現代から見てのこと。火災という隠れ蓑を被り、再建の急務という言い訳のもとでの加筆は、柳澤家のささやかな逆襲とも見てとれる(当該推測は『源公実録』解説で既に堀井寿郎氏によりなされている)。

染子と佐瀨津那子

「門葉譜」によれば、染子は上総国一袋村(現在の東金市一之袋)の郷士(武士待遇を受けた農民)飯塚杢大夫正次(自得院、15人扶持、金25両被下置)の娘であった。

正次には彦右衛門正朝以下、7人の子がおり、染子は3女。4女は、信州善光寺113世の尼上人誓伝(明観大和尚、智善)。染子腹の唯一の女子幸子が度々の疾で苦しむのを救うべく、意(易とも)仙と改めさせ仏門に入れる導師をなしたが、効験なく3歳で早世。

長男正朝は550石取りの武士となっている。吉保父安忠が、館林宰相綱吉の勘定頭で致仕した時の石高が530石であったのと比較するとわかりやすい。

吉保生母了本院佐瀬津那子は、上総国二之袋村の名主図書(屋号醤油屋)、佐瀬与惣治を父に誕生した。二之袋村は隣接の一之袋村と共に、現在の東金市に名が残り、上総武田氏の滅亡後、家臣団が開拓した低湿地帯。九十九里浜まで1里ほどに位置する。

その一之袋・二之袋村(計160石)が、柳澤安忠の知行地となった。知行地から下男下女を召し出す役奉公は当時の習わし。了本院は20歳ほどで安忠のもとにあがり、30歳で吉保を生んだ。しかし、正室の嫉妬で柳澤家を追い出され、一人実家に身を寄せた(コラム第1回:吉保誕生)。

その後、了本院は一之袋村の佐瀬某に嫁ぎ隼人政信を生む。政信は後に吉保の庇護下、柳澤を号しその家臣となるが、了本院は佐瀬某と死別。

再婚したのは、一之袋村から4里ほど南、長柄郡高根本郷の郷士大沼林斎であった。荻生方庵の弟子でもあった林斎は徂徠の学友。徂徠が儒官として吉保に召し抱えられたのは、了本院と林斎の後援を得たためと伝わる(『東金市史(通史篇下七)』・『東金市文化団体協議会会報―第30号―』)。

了本院は林斎との間に2男児を得た。1人は主馬。後に柳澤大蔵を名乗る。もう1人が琥芳。川越城主となった吉保がなした三冨開発。その新田に入植した人民の心の支えとして開山したのが多福寺。その開祖に琥芳を迎えたのである。

染子吉保の側室に

天和元年(1681)、吉保24歳は都合830石取りの小納戸。綱吉の学問の一番弟子で、愛宕下に屋敷も賜り、出世街道をあゆみ始めていた。

4年前の延宝5年(1677)、嫡母青木氏の死を期に実母の存在を知った吉保は、父を気遣いつつも母恋の思いは棄てがたく、ついに天和元年12月、了本院一家を上総から江戸に迎え取るのである(『楽只堂年録』第1、19・20頁)。

了本院一家が、孝行息子に引き取られる話は飯塚家にも届く。所詮郷士止まりの佐瀬与惣治、子供の将来を見据え、まずは染子を了本院の侍女の格で江戸へ奉公に出すことを決断した。染子15歳であった。

それから5年が経った。19歳と17歳で結婚した吉保と曾雌定子も、29歳と27歳になっていたが子供が授からない。無嗣絶家を恐れた柳澤家では、吉保に側室を迎えることにした。そして了本院への奉公ぶりが評価された染子19歳が、側室に選ばれたのである。

貞享4年(1687)9月3日、染子は吉里を出産。同月9日は七夜。折から末期を迎えようとしていた吉保父安忠は、初めて吉里と対面、嫡家の名である兵部と命名、重代の刀剣類を与える。そして染子に向かい、金子を取り出し、「男子を生たらば、是をとらすへきと兼て約束せし」(『楽只堂年録』第1、26頁)と言祝いだのである。

染子を側室に入れたお蔭で断家を免れた柳澤家。どれほどに喜ばしかったか。染子兄正朝が550石取りに取り立てられたのも、染子が継嗣を挙げたことへの褒美であったと考えるべきかもしれない。

染子逝去

定子・了本院・染子間でのもめ事は史料に一切見えない。かつて吉保を生み、正室青木氏の嫉妬をかった了本院が、上総二之袋村へ逃げ帰ったのから見ると隔世の感がある。

もっとも、定子と了本院間の嫁姑問題と共に、了本院が現夫林斎を伴っていたことによる実父安忠と継父林斎間の微妙な雰囲気を危惧、吉保は同居を避け、下屋敷(当初は霊岸嶋)に住まわせることになる。

因みに了本院引取りの5年後の貞享4年(1687)、安忠(9月)も林斎(逝去月日、享年不明)も他界。吉保の危惧の半分は自然解消したのであった。

一方吉里は、綱吉がらみの流言飛語にも怯むことなく成長、宝永元年(1704)正月28日、18歳で酒井忠挙女頼子(本名とち)と婚礼。吉保は甲斐国主へと昇格し、柳澤家の将来は揺るぎないものとなりつつあった。

ところが宝永2年(1705)閏4月19日、いきなり染子病重きにつき、吉保登城遠慮の記事が『楽只堂年録』(第6、34頁)に見え、以後度々欠勤が続く。

徳川家宣をはじめ歴々の見舞が届き、公弁法親王(後西皇子、三管領宮)は寛永寺根本中堂で平癒祈禱。染子は市ヶ谷八幡三社に「甲府少将(吉保)嫡男侍従(吉里)実母橘氏奉納」と記した簾三通りを寄進した。

寄進の効験か、同月26日には快然の兆しが見える。大喜びの吉保は公務に戻り、見舞への謝意を述べていた5月10日、何の前触れもなく染子は死去するのである。39歳。翌日、龍興寺で葬儀、法名霊樹院月光寿心大姉となった。

龍興寺は定子の実家の菩提寺。その塔頭愚丘庵が染子の菩提寺であった。定子は染子を、嫉妬などとは程遠い、柳澤家を安泰に導いた吉里生母として、恩人の如く遇したのである。

四十九日忌を期し、愚丘庵位牌堂は改修され、染子・染子腹の3子・自得院茂庵常林居士(染子父、林斎)・不台院明円古鏡大姉(染子母)の6位牌が遷座した。

かくして、上総国一之袋村の風は江戸にも吹き続けることになったのである。

染子の遺した物

中院通茂の添削を受け、本格的に和歌を学んでいた染子は、吉保主催の柳澤家和歌会の常連として、多くの和歌を詠んだのが『楽只堂年録』に確認出来る。

また『染子歌集』(柳沢文庫蔵)は、吉保の文匣に遺る染子と交わした色紙・小短冊和歌を手鑑に仕立てたもので、『源氏物語』では光源氏が「かきつめて見るもかひなし藻塩草おなじ雲居の煙とをなれ」と焼き捨てた紫上との贈答が、ここでは共に折帳に貼られ遺った実際が覗ける。

染子が文芸に造詣深かったのは、百箇日に愚丘庵に施入された遺物や、綱吉に献上された飛鳥井雅豊筆『二十一代集』・知恩院宮良純法親王筆『源氏物語』などにも知られる(『楽只堂年録』第6、宝永2年8月20日・24日条)。

こうした染子の文芸的素養は、そのまま吉里に引き継がれてゆくのである。


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。