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出版部

やさしい茶の歴史(四)(橋本素子)

入唐僧と喫茶文化

第1回に述べた平安時代前期の永忠・最澄・空海等のあとも、唐風喫茶文化は、何度もさまざまな人々によって持ち帰られたものと見られる。

そこで今回は、視点を国外に向け、中国の唐に留学した僧侶「入唐僧」が、唐風喫茶文化をどのような場面で体験したのか、平安時代前期の円仁と中期の円珍の事例を見ていきたい。

地方長官らと共に接客の茶を飲む円仁

まず、平安時代前期の天台宗の僧侶、円仁である。円仁は、最澄に師事した後、承和5年(838)、最後の遣唐使として入唐する。

円仁著『入唐求法巡礼行記』によると、同年11月18日に茶を飲む機会を得ている。

この時円仁は、開元寺(福建省)で天台山に登る勅許を待っていた。天台山は師の最澄が修行した地ではある。

そこへ楊州の大都督(軍政長官)李徳裕がやって来た。まず李徳裕一行は、11月8日に開元寺へ来て仏に礼拝した後、堂前の石畳で、円珍ら日本からの請益僧(短期留学僧)・留学僧(長期留学僧)を慰問した。これに対して円珍らは、16日に啓(上書)と贈物を送った。その返礼として、18日に徳裕らが開元寺に来た折に、円仁に面会することになったのである。

十八日。相公は寺裏に入来して閣上の瑞像を礼し、及び新作の像を検校す。少時にして隋軍[李相公幕僚]の大夫沈弁走り来たって云う、「相公は和尚[日本僧]を屈[屈請、足労をかける]す」と。乍(たちま)ち聞いて使と共に往いて閣上に登る。相公及び監軍[軍の監察官]並びに州の郎中、郎官、判官等は皆椅子上にて茶を喫す。[請益・留学]僧等の来たるを見て皆起立し、作手立礼して且(か)つ坐せと唱(とな)う。即ち倶(とも)に椅子に坐して茶を啜(すす)る。相公一人、随い来たる郎中以下判官以下惣(す)べて八人なり。(後略)
(足立喜六訳注・塩入良道補注『入唐求法巡礼行記1――円仁』東洋文庫157、平凡社、1970年、66頁)

急ぎ円仁が閣上に登ると、徳裕以下役人たちは、椅子に座り茶を飲んでいた。しかし、円仁の姿を見ると皆起立し、作手(叉手か)・立礼した後、円仁に座るように椅子を勧めた。そこで、ともに椅子に座り、茶を啜ったのである。

当時の先進国である唐では、客人が来れば茶と湯を出すのが、庶民にいたるまでの慣習となっていた。したがって、唐の寺院において客人である地方長官ら役人に茶を出すことは、ごく自然の事であった。その場に駆け付けた円仁もまた、ともに茶を飲むことになることも、自然の流れであった。

この後も、円仁等は、移動先の寺院などで茶のもてなしを受けたり、地方役人から茶を送られたりしている。たとえば、万年県では「蒙頂茶」「団茶」が送られている。

なお、この後の円仁であるが、結局は希望していた天台山に登る勅許は下りず、五台山に登ることになった。さらには、その後長安に入るものの、18代皇帝・武宗による廃仏が始まり、還俗姿で日本に帰ることになった。

華頂山の茶樹を見た円珍

次に平安時代中期の天台宗寺門派の祖・円珍である。円珍は仁寿3年(853)に入唐し、19代皇帝・宣宗の時代で仏教も保護されていたため、無事に天台山に登ることができた。

これは一次史料ではないが、延暦寺が円珍遺文などから円珍の弟子がまとめた資料を提供し、円珍俗弟子の三善清行に書かせた、延喜2年(902)成立の『天台宗延暦寺座主円珍伝』を見ると、天台山の主峰である華頂山の様子について、

若竹が黒々として生えており、茶樹が林を成している。

と記されている。すなわち、華頂山には茶園があり、茶樹は林を成すほどであったという。この「林を成す」であるが、茶の木は摘採(茶摘み)のあと、「番刈り」と言われるように枝を深く刈り込まずに伸びるに任せると、ゆうに2メートルを越える高木となる。

おおむね、平安時代中期、華頂山には茶園があったものとみてよいであろう。

現在の華頂山にも、名茶「華頂雲霧」を産する茶畑が広がっている。その一角には、三国の呉出身の仙人葛玄が開いたとされる最古の茶園「葛仙茗圃」の碑が立つ。さらにその脇にある藪の中には、樹齢一千年を越えるとされる高木の茶樹が見られる。

このような華頂山の遺跡の情報や茶園・茶樹等を見るに、これらを『天台宗延暦寺座主円珍伝』の情報と直接結びつけて考えたくなる方もいることであろう。しかし円珍がみたそれが、今の場所であるかどうかはわからない。また、茶の木は、毎年等しく年輪を刻まないものとされる。そのため、現在残る樹齢1000年を超すといわれる茶樹が、円珍のころからある茶樹であるかどうかは、たとえ茶樹を伐採してみてもわからないことになる。そのあたりは慎重を期したい。

以上、唐では、茶の消費については、客が来たら茶を出すことが慣習となっていたため、円仁のように入唐僧は総じて茶を飲むことが経験できたものとみられる。いっぽうで、円珍のように茶園を見ることができたとしても、肝心の茶の生産(栽培と製茶)に、どの程度関わることが出来たのかは不明である。


今回の八木書店の本

『入唐求法巡礼行記』(『続々群書類従 第十二 宗教部2〔オンデマンド版〕』2013年)


 

橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社 2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)