『宇治堀家文書』とは(橋本素子)
静岡茶、狭山茶と並んで日本三大茶と呼ばれる宇治茶。しかしその長大な歴史とは裏腹に、宇治茶師の家の文書はほとんど現代に残っていません。今回は、中近世移行期に繁栄を見せた茶業の様子を知ることができる唯一の文書群といえる『宇治堀家文書』の見どころについて、見ていきたい。
『宇治堀家文書』翻刻の意義
宇治茶は、応仁の乱前後までには、日本を代表するトップブランドとなっていた。中近世移行期になると、宇治郷在住の茶業者である「宇治茶師」たちは、さらなる生産力の強化のために、茶園全体に覆いをして遮光し栽培を行う覆下栽培による「抹茶」を発明し、当時流行していた「茶の湯」で使用する「抹茶」の生産と販売を独占していた。
この宇治茶による「茶の湯」市場の独占を可能にしたのが、戦国期から江戸初期、宇治茶師たちが行った宇治郷および周辺地域における「土地の集積」である。近世初頭、宇治において数百から数千もの人を使い、広大な土地で茶の栽培を行っていた様子は吉田兼見の日記『兼見卿記』第2・3(史料纂集古記録編)などから確認できる。この時期の宇治茶業界の動向を知る基本史料となるのが、今回翻刻出版する『宇治堀家文書』である。
『宇治堀家文書』とは
『宇治堀家文書』は、山城国久世郡宇治郷在住の宇治茶師・堀氏の旧蔵文書である。全三巻、巻一が51通、巻二が54通、巻三が43通の計148通で、承安2年(1172)以降の中世文書と、寛文7年(1667)までの近世文書からなる。
巻子に仕立てられたのは、第一巻・第二巻の奥書から、元禄2年(1689)であることが分かる。同6年には、堀新作が宇治茶師三仲間のうち御袋茶師から御物茶師へと昇格していることから、これに際して家の由緒を示すべく、手継券文を解体し、新作が「重要」と考える文書を抜き出し、年代順に並べるべく(実際は年代順ではないところもあり、巻三では、近世史料のあとに補遺的に中世史料が並べられている)、巻子に仕立て直したことが想定される。
そもそも宇治茶師の文書は、御物・御袋・御通の三仲間約60家のうち、ほとんどの家の文書は残らず、かろうじて上林家峯順家・同春松家・同三入家・片岡道二家などが残るものの、近世以降のものが多い。その理由としては、宇治が江戸時代に二度にわたる大火に見舞われたこと、宇治茶師の多くは明治初期までに廃業したこと、茶業では大量の和紙を焙炉紙等に使用してきたことなどが挙げられる。このような中で、中近世移行期には「茶の湯」の流行にともない宇治も繁栄期を迎えたが、その時期の茶業の様子を知ることができる唯一の文書群ともいえる『宇治堀家文書』が、今日まで伝来したことの意義は少なくない。
これまで『宇治堀家文書』は、1970年代から80年代に刊行された『宇治市史』に一部の読み下し文が収録されたが、翻刻文の掲載はなかった。2000年には国立歴史民俗博物館資料目録[1]『田中穣氏旧蔵典籍古文書目録[古文書・記録類編]』に目録が収録され、国立歴史民俗博物館HPでも原文書が公開されているが、全文が翻刻されたのは今回が初めてとなる。
当時の茶業と土地売券
その『宇治堀家文書』の大半は、土地売券である。堀氏が買得し集積した地目は、茶園に限られるものではなく、田地・畠地・屋敷・山地と多岐にわたる。このうち、一番多い地目は田地であって、茶園ではない。確かに他の史料群に比して、茶園の件数は多いものの、全体の四分の一程度である。
その理由としては、次のような点が考えられる。
まず、寛永8年(1631)閏10月13日付「白川東坊某田地売券」(108号)等からは、田地を茶園に転作していたことが分かる。よって田地や畠地の買得の理由は、これを茶園に転作することが可能であったことにあろう。
さらに、田地・屋敷・山地を購入した理由としては、織豊期から宇治で行われるようになった「覆下栽培」との関係が指摘できる。「覆下栽培」とは、春先の新芽が出る頃から、茶園全体を簾や筵で多い10日間、さらにその上に二重目の覆いとして藁を振って10日間、都合20日から一か月程度、茶園全体を被覆して栽培する方法である。これにより、露地栽培よりも葉質がやわらかで、旨味成分の多い茶葉が生産できる。
その被覆資材としては、骨組みに材木と竹材、茶園を覆う簾や筵に葦や藁、二重目の被覆として振る藁が必要となる。そのため、田地は藁を供給するために、山地は被覆資材の竹や材木、あるいは製茶の際に使用される燃料として炭や薪を確保するため必要であった。屋敷は宇治茶師の住居のためだけではなく、奥に茶を加工する茶工場をつくるために必要であった。堀氏が茶園のみならず、様々な地目の土地を買得し集積した理由は、ここにあろう。さらに、慶長16年(1611)7月24日付「弥八郎藁請負一筆状」(138号)等の4通からは、堀氏が保有する田地から藁をどのようにして確保していたのかが分かる。
これを一例とするように、中近世移行期の宇治茶業や、宇治茶の生産景観の復元に繋がる史料が得られるのが、『宇治堀家文書』の最大の魅力である。そのため、解題において宇治茶の歴史だけではなく、茶業の特徴を解説することに努めた。
宇治茶師と宇治郷
そのほか、本書利用の際の便宜を図る努力を行った点は、以下の通りである。
『宇治堀家文書』には、断片的ではあるものの、宇治茶師の名前が散見される。頭注には、極力これらを掲出することを心がけた。解題においても、宇治茶師、あるいはそれと思われる人物を抽出して一覧表を設けた。
また、土地売券には、「一乱」により本券を紛失したことを示す文言が散見される。これらは戦国期の南山城地域の政治状況を反映したもので、小規模な合戦が繰り返されていた様子が読み取れる。これも頭注で掲出し、解題でも抽出した。その記載はどれも極めて断片的であるため、当該文書だけでは具体的にどの合戦であったのかを特定することは難しい。今後他の史料と照合されることで、一部なりとも復元されることを期待したい。またこの「一乱」には、近代以降に『宇治堀家文書』蒐集した田中家によって付けられたとみられる付箋があるが、この内容も採録した。
さらには、頻出する宇治郷の字名に対応するため、江戸時代中期『宇治郷総絵図』(宇治市歴史資料館蔵)をもとに地図を作成した。
以上を併せてご活用いただければ幸いである。
橋本素子(はしもと もとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身。奈良女子大学大学院文学研究科修了。元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事。現在京都芸術大学非常勤講師。
〔主な著作・論文〕
橋本素子・角田朋彦・野村朋弘校訂『史料纂集古文書編 第51回配本 宇治堀家文書』(八木書店、2021年)
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社 2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)