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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第7回:吉保の側室達―(二)正親町町子―その2―(宮川葉子)

柳澤吉保を知るの第6回では、町子の実父は正親町公通、実母は水無瀬氏信女で大奥総取締に至った右衛門佐の局であることを検証した。当該第7回では、町子が吉保にもたらした堂上文化と2男児について見て行く。

吉保と北村季吟と古今伝受

ここで町子自身からはいささか遠ざかるが、町子を語るに避けて通れない古今伝受について触れておきたい。

元禄13年〈1700〉8月27日、吉保は北村季吟から古今伝受を授けられた。『楽只堂年録』第3には、古今伝受授与、伝受書付受領(同9月27日)、柳澤邸火災による伝受書付一式の焼失(元禄15年4月6日)、その再発行(同7月12日。柳沢文庫蔵「古今集幷歌書品々御傳受御書付」は再発行のもの)は録されながら、古今伝受の根幹たる「古今集」の秘説指導については一切語られていない。

古今伝受は、おいそれと授受できるものではない。東常縁が宗祇に、宗祇が三条西実隆に手間暇かけ伝授したように、吉保も季吟から時間をかけ歌学教育・秘説指導を受けたはずなのである。

季吟が吉保に授けた古今伝受は、三条西家内で実隆―公条―実枝と伝わり、細川幽斎・松永貞徳を経て万治2年(1659)季吟に渡った流れ(柳沢文庫蔵「伝受血脈」)で、「当流」と呼ばれた正統な一派。

その貴重な教育経過が録されないのは、『楽只堂年録』の前身「静寿堂家譜」の焼失が原因であろう。

吉保邸罹災は、実隆が「舟ながしたる」の詠歌を書付け、今川へ手渡した定家筆天福本『伊勢物語』をはじめ、多くが灰燼に帰したのみならず、復元不可能な記録類への痛手も甚大で、その代表格が季吟の歌学教育課程の記録であったと思われる。

記録には残らない古今伝受課程ではあるが、吉保にとってその過程は公家文化に近づき、一人前の歌人として認められるに必要な関門であった。

三条西実隆と町子

町子に戻る。町子は堂上(公家)文化へ吉保を繋いだ。これは町子を側室に望んだ吉保の思惑でもあった。

では何故町子であったのか。他の公家の姫では役不足とでも言うのか。公家による古今伝受の始発は実隆である。宗祇から受けたそれにより、三条西家は和歌の家としての足場を固めたといっても過言ではない。

そして町子は、父方母方の双方から実隆の正統な子孫と言えるのである。

実隆次女は正親町実胤に嫁し、そこに生まれた公叙は町子が父と呼ぶ実豊、兄と呼ぶ公通の祖先となった。

一方実隆息公条の息男親氏は、兼成と改名し水無瀬英兼の養子となり、右衛門佐の祖先となった。

吉保の思惑とは、古今伝受の正統を継ぐ公家の姫を側室に迎えたかったということなのである。そしてそれは結実したと言うべきであろう。

堂上歌学への憧れ

町子は吉保を堂上文化へ繋いだと述べたが、そこに活躍したのは実父公通・実母右衛門佐であった。

霊元院歌壇の重鎮公通、霊元院中宮の侍女から期待され綱吉御台所(鷹司信子)采配の大奥女中に至った右衛門佐が、堂上方に昵懇なのは申すまでもない。

堂上文化は吉保の希望通り柳澤家に浸透し始める。霊元院の吉保・吉里和歌添削、六義園十二境八景勅撰、吉保の参禅録『勅賜護法常応録』の書名と序の下賜などがその代表的成果であろう。

一方で、幕府歌学方(元禄2年〈1689〉季吟・湖春父子が任じられ北村家の世襲となった職名)に季吟が就いた直後あたりから、吉保は季吟に歌学を学び始めたと考えられる。吉保32歳、季吟66歳、湖春42歳の頃である。

しかしそれはあくまで地下(じげ。一般民衆)の歌学。吉保が目指し憧れたのは、実隆が属した堂上歌学であった。

霊元院と吉保の連絡の仲介に立ったのは公通。『楽只堂年録』には、夥しい公通宛ての吉保書状と、仲介役公通が霊元院の発言・様子を伝える書状の写が録されている。

一方、町子が側室となったであろう元禄6年(1693。翌7年11月、町子腹の経隆誕生からの逆算)、公通は武家伝奏(朝廷の職名)に就任。町子を側室とした褒美の意味合いが濃いのはさておき、朝廷と幕府間を緊密に保つ職掌柄、吉保との連絡は円滑になった。

公通に比し右衛門佐の活躍は表面的ではないが、柳澤邸罹災後、霊元院指揮下になった堂上歌人寄合書きの「三代集」を贈って吉保の落胆を慰撫(元禄15年〈1702〉閏8月9日)、東山院下賜の諸卿筆古歌短冊50枚を仲介(元禄16年3月9日)しているのなどは、堂上文化を吉保へ継ぐ活躍と言えよう。

町子と『松陰日記』

町子には『松陰日記』の著作がある。全30巻からなる大部な作品で、清書本・草稿本共に柳沢文庫所蔵。清書本は「松家気」、草稿本は「松かけの日記」と題名表記する。今は「陰」か「蔭」かにも深入りせず、通行に従い「松陰日記」としておく。

題名の意味するところは、松平の称号を下賜された吉保(元禄14年〈1701〉11月26日、吉保・吉里は松平の称号と綱吉の諱の「吉」字、経隆・時睦は松平の称号を拝領)の庇護下に、生涯を送った女性の記録といったところか。

内容は吉保栄華の記録。吉保が従五位下出羽守に補任された28歳の貞享2年(1685)頃の記事から起筆、宝永6年(1709)6月、同年1月の綱吉薨去を期に53歳で隠退、下屋敷六義園に移り住み、風雅な数年を送る中での擱筆。守備範囲は約四半世紀に亘る。

『松陰日記』は、『楽只堂年録』から公用的堅苦しさを外し、情緒的・文芸的に表現し直したものと言える。従って『年録』を傍らに読み進めると、私的な視点からの吉保像が浮かび上がるのである。

さらに筆を運ぶのに町子は『源氏物語』を大いに意識した。『源氏物語』からの豊富な引用、巻名和歌に添った巻名、吉保を光源氏に見立てた表現などが『松陰日記』を一層雅な世界に近づける(詳細は宮川葉子『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』〈平成19年1月・新典社〉)。

つまり『松陰日記』に見られる町子の『源氏物語』受容は、元禄期~宝永期における柳澤家の古典受容、それを踏まえた和歌世界への広がりを語っている。それは同時に、吉保が北村季吟や堂上方との交流の中で培って来たものでもあった。

町子腹の二男児

町子は吉保の男児を二人産んだ。経隆(つねたか。安通。従五位下刑部少輔)と時睦(ときちか。信豊。従五位下式部少輔)である。

経隆は元禄7年(1694)11月16日誕生。町子16歳時。吉保37歳は、同年1月に7万石余を領する川越城主。出世街道を驀進していた。しかし私的には、側室染子腹の安基(元禄5年誕生)が3月に3歳で夭折、同じく染子腹の女児幸子(同6年誕生)が閏5月に虚弱を理由に剃髪、易仙と改名するなど、心の闇への惑いはぬぐえなかった。

時睦は元禄9年(1696)6月12日誕生。町子18歳時。川越城主吉保の行政は順調で、三冨開発(さんとめ。武蔵野の新田開発)の仕上げに、入植者の心の拠り所と計画した多福寺と多聞院が共に落成したのが、時睦誕生直前の6月9日であった。

経隆より8歳、時睦より10歳年長の長子吉里を合わせ、吉保は男児3人を確保。かくしてひとまず無嗣断家の憂き目から遠ざかれた。公家文化移入と共に町子の功績である。

経隆・時睦を、綱吉は双子の孫のごとく寵愛した。例えば度々の下賜品は、兄弟お揃いのものであった。そして諱の拝領こそなかったが、松平の称号も授与された。

綱吉の薨去(宝永6年〈1709〉正月10日)を承け、吉保52歳は同年2月25日、家督を吉里23歳に譲り、6月3日に正式に隠退。同日、経隆・時睦は、甲斐国(吉保が宝永元年〈1704〉に拝領)内に、1万石宛ての知行も認められた。

経隆・時睦共に、大名(1万石以上が大名)としての出発である。吉保が相続した家督が530石であったのに比し隔世の感がある。これも吉保が滅私奉公することで築き挙げた、柳澤中興の祖たる誉れの一端であった。

その後、経隆は越後黒川(現在胎内市)藩祖1万石、時睦は越後三日市(現在新発田市)藩祖1万石になる。2人共に定府(じょうふ。参勤交代しない江戸在住の大名)で現地に下ることはなかったが、現在も胎内市、新発田市には、各藩の代官所跡が残る。

経隆は享保10年(1725)8月23日、江戸駒込六義園に没し、柳澤家の菩提寺月桂寺に葬られた。32歳。前年逝去の町子があの世から呼び寄せたようなタイミングであった。

時睦は享保9年7月、29歳で若すぎる致仕をした。同年3月の町子逝去と何らかの関連があるか。その後の経歴も明確ではないまま、寛延3年(1750)4月、55歳で逝去、月桂寺に葬られた。

肉親との別れ

町子は祖父・妹・母・夫を見送った。

祖父実豊は、元禄16年(1703)2月3日京都に逝去。85歳。『楽只堂年録』には、同月10日の条(第4・78頁)に、

正親町前権大納言実豊卿、当月三日逝去のよし、今日注進有、安通(経隆)・信豊(時睦)か実母(町子)の実父なり、

とある。実豊は町子の実父ではなく祖父であるのは既に述べた。

次に『楽只堂年録』宝永4年6月4日の条(第7・172頁)には、

松平讃岐守頼豊が妻、今朝死去す、安通か実母の妹なれは(後略)、

とある。

この女性は、実豊の子、公通・町子姉妹として「女子松平讃岐守(頼豊)室」とある人物(コラム第6回、正親町公通の項掲載の系図)。

一方『松陰日記』には、

水無月頃、高松の少将殿の北の方失せたり。これは故大納言殿の女に物しけるを、年頃己が妹の事、とかく口入れんとにはあらざりけれど、此方の御もてなしにまかせ聞えて、やがてかの少将殿に住みたるになん有ける(前掲同書「廿五、ちよの宿」6段)

とある。

高松の少将殿は頼豊。町子妹と頼豊は、「此方の御もてなし」、即ち吉保の尽力で婚姻に至ったという。『楽只堂年録』からは知れない事柄である。

妹の実父が、町子同様正親町公通であると断定は出来ない。

高松松平家の三代頼豊の系譜(『徳川諸家系譜』第三・108頁)では、

室正親町大納言実豊女〔宝永元年甲申六月四日縁組願済、二年乙酉九月廿一日婚姻、四年丁亥六月五日死去〕子無之候、(〔 〕内2行の割注)

とあり、実豊女としている。町子の出自を敢えて朧化、実豊女としたのと同様、妹のそれも同様の扱いに見える。

実母の逝去と鎮魂

町子の実母右衛門佐は、宝永3年(1706)3月11日に逝去した(コラム第6回、町子の生母〈1〉)。ところが『松陰日記』には、母の死に関する記述が1行も見えないのである。

『楽只堂年録』と突き合わせると、『松陰日記』「廿三、大みや人」(宝永3年2月~3月相当)には、2月11日の徳川家宣(6代将軍)の吉保邸御成の記事以降、右衛門佐逝去も含め、半年程の記事がないまま、「廿四、むくさの園」(同年夏~冬)へ移るのがわかる。

江戸に生きよと人生の指針を与えてくれた母親の死は、吉保栄華の記録『松陰日記』に、吉保関連の記事として載せるには、あまりに個人的悲嘆が大き過ぎたのではなかったか。

悲嘆を振り切るため、彼女は『松陰日記』とは別な一作をまとめ鎮魂に代えた、それが従来、祇園梶子作とされて来た『梶の葉』ではないか――と考えるのである。

梶子は町子の異腹妹か、との試論も含め、詳細は別稿に譲りたい(宮川葉子「祇園梶子試論―正親町町子との関連から―」淑徳大学国際コミュニケーション学部学会機関誌『国際経営・文化研究』第20巻第1号・2015年11月)。

隠退後の吉保

綱吉崩御後の宝永6年(1709)6月18日、『楽只堂年録』(第9・78頁)には、

吉保幷に妻、今日駒込の下屋敷のやかたへ移徙す

とあり、呆気なく吉保の公用日記は終わる。

この折、他界した飯塚染子(宝永2年5月)は除き、側室5人も移徙したと考えられる。正親町町子・横山繁子(重子)・上月柳子・片山梅子・祝園閃子(とらこ)である。

妻妾達の居住空間は、完璧に整備され、それを町子は、

かたがたに願ひの心映へを籠めて掟てたれば、猶いと広らかに作り続けて此方彼方行き通はし、いと雅かなる物からおかしう心ゆきたる様なり(『松陰日記』「三十、月花」一段)

と表現した。

この部分、『源氏物語』少女巻で語られる六条院を想起させるのだが、それは今擱き、六義園のこの住まいで、吉保と妻妾達は俗世を離れた風雅な日々を堪能してゆく。

その体制は、正徳3年(1713)9月5日、定子の死で崩れる。吉保56歳、定子54歳、町子35歳であった。以後、町子が正室の役割を担ったかと思われるが詳細は不明。

同年9月26日、導師を悦峰和尚(吉保の交友黄檗山万福寺住持)に受戒、髪剃り(こうぞり)もなした。妻に逝かれた夫の出家は偕老同穴を思わせもする。

それから1年後の9月5日、甲斐国永慶寺に葬られた定子(真光院)の一周忌法要がなされた。同日、側室横山繁子逝去。江戸深川浄心寺に埋葬。

そして同月27日、吉保は持病の癪積(胸や腹の突然の激痛)の発作が止まるところを知らない状況となる。

最期の対話

正徳4年10月9日、吉保重篤に、任国甲斐にあった吉里(28歳)は、義弟経隆(町子腹)を名代に看病のための出府を願い、11日深夜、六義園に到着。

24日には、吉保撰述「常憲院様御実記」1部30冊の寛永寺本坊(公弁法親王)への奉納がなされた。

その同じ日、町子と吉保は最期の対話をなす。『源公実録』(柳澤家家老藪田重守が、信鴻〈のぶとき。吉保―吉里―信鴻〉に献上した吉保の実録。柳沢史料集成第1巻「附録・源公実録 冬 御終焉、幷、御没後之御事」167頁)の記事を口語訳しておく。

理性院(町子)が吉保に言った。

「ご祈禱を専一になさいませ。なんぞ申し置かれたい儀がおありでしたら、なんなりとおっしゃって下さい」。

吉保が答える。「何もない。当春、吉里が任国へ発つ際に、詳しく言い聞かせてある。それ以外は、ここの文庫に収めた書付に従えば、何事も首尾良く進む手はずになっている」。

そして最後に、「よくぞ配慮してくれた」と付け加えた吉保の御機嫌は上々であった。

「よくぞ配慮してくれた」に町子への感謝が滲む。

公家の姫を側室に入れた吉保は、恐らく出自に発する遠慮を持ち続けていたであろう。しかし最後、「理性院殿へ御機嫌克、御意御座候」、町子への、氏や育ちを越えた純粋な謝意のみ残ったのである。

それから1週間後の11月2日。

朝の身仕舞いを整えた吉保、この日に限って服薬を拒み、側室を一人残らず去らせると、護持僧と昵懇の世話役3人のみ残した。4人の見守る中、念仏以外一言も発せず、午後2時頃眠るように息絶えたという。

〔補遺〕

2021年1月、『松陰日記』の英訳が出た。早稲田大学教授ゲイ・ローリー氏による。

In the Shelter of the Pine
A MEMOIR OF YANAGISAWA YOSHIYASU
AND TOKUGAWA JAPAN
OGIMACHI MACHIKO
TRANSLATED BY G.G.ROWLEY
Columbia University Press
NEW YORK


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。