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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第6回:吉保の側室達―(二)正親町町子―その1―(宮川葉子)

吉保の側室6人のうち、飯塚染子に次いで側室となったのが正親町町子である。

正親町公通

公通は承応2年(1653)、正親町実豊末子として、藤谷為賢女を母に誕生した。吉保より6歳年長である。

元禄6年(1693)武家伝奏(武家との連絡にあたる朝廷の要職)、同8年権大納言、正徳2年(1712)叙従一位。山崎闇斎門下で、皇統護持を核心とする垂加神道正系を伝える正親町流神道家として活躍の一方、霊元院歌壇の構成メンバーとして、和歌はもとより和漢誹諧を嗜み、特に狂歌作家として名を残した。享保18年(1733)、81歳で没し京都東山真如堂に葬られた。

その公通は、「門葉譜」(嫡男以外の子女に関しても、記名・誕生日・生母の出自やその略系まで掲載する私的系譜(『柳沢家譜集』柳沢史料集成第4巻)の安通(経隆、生母正親町町子)関連事項に、

として登場。正親町実豊息、町子兄に位置する。

町子の実父

昭和9年(1934)初版の『甲斐叢書』収載『松蔭日記』解説に、

作者は正親町公道(マヽ)卿の女町子なりといへども未だ明かならず(傍線宮川、以下同じ)

とあるのが、町子の実父を正親町公通とした最初のようだが、「未だ明かならず」と疑問符付きの物言いであった。

以後、公通実父説は遠ざかり、実豊実父説が専らとなる。私も実豊実父説を採用していた時期がある。

ところが、「万歳集」(歴代家族を生誕順に列記した最も私的な過去帳(同上『柳沢家譜集』)の、町子腹の経隆の項に、

経隆公 御生母田中氏町子様 実ハ正親町公通様御女(傍線部分は2行の割注)

とあったのである。

『甲斐叢書』の「公道」は、「通」を「道」とした書損で、解説者は「きんみち」のつもりであったのであろう。同音異義語と「未だ明かならず」に惑わされ、「万歳集」に手を広げなかった自らの杜撰さを思い知った。

それにしても、同じ柳澤家の系譜類でありながら、「門葉譜」と「万歳集」で記述内容に差異があるのは何故なのか。

一方町子は、後述する『松陰日記』の著者である。その「15、山水」に、

元禄も十六年になりぬ。二月ばかり、父の都に侍りけるが……失せ給ひぬる由言ひをこせたり。正親町の大納言実豊卿とぞ言ふ(宮川葉子『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』平成19年1月・新典社)

とあり、実豊を実父と呼んでいる。ここを読めば、町子の実父を実豊と思い込むのは必定。恐らくは表向き祖父を父、父を兄と呼ばざるを得なかった何らかの事情が存するのであろうと考えたが、父方のみの探索では解決に遠かった。

町子の生母(1)

『楽只堂年録』宝永3年3月11日の条(第6、225頁)に、

右衛門佐の局、今日死去す、右衛門佐ハ、桃井内蔵允之政か養母なり、之政か妻ハ、故正親町前大納言実豊卿の妾にて、安通か実母の母なり、

とある。続いて町子が母の喪に服するに及んでの度合いが語られるが省略する。

右衛門佐の局は水無瀬氏信女。霊元院中宮新上西門院房子(鷹司房輔〈教平カ〉女)の侍女で、召し名は常盤井。通説では宮中で『源氏物語』を語るような才媛であったという。

一方、房輔連枝浄光院信子は綱吉の御台所。以下その略系図である。

延宝8年(1680)8月、綱吉に将軍宣下。翌9月、江戸城本丸に移徙した信子は、御台所として大奥整備にかかる。その過程で姪房子に「才智ある女儀」を求め、選ばれたのが常盤井であった。

江戸下向後、常盤井は右衛門佐と改称、奥表の女中連を支配し名を挙げる。それを評価した綱吉は、彼女を大奥総取締に抜擢、千石の年俸を与えた(以上『柳営婦女伝系十三』〈『徳川諸家系譜』第一・続群書類従完成会〉参照)。

町子の生母(2)

町子の実母が右衛門佐であるのは、前引『楽只堂年録』の「右衛門佐ハ……安通か実母の母」が語る。右衛門佐は「安通か実母」(町子)の母なのである。

江戸城大奥で活躍する母は、町子を呼び寄せた。前引『松陰日記』「15、山水」の、正親町実豊逝去の記事に続き、その経緯が語られる。

まだいと十六ばかりの年にかありけん。御所に侍ひ給ふ右衛門の佐のさる縁にて、「東にて身の置き所も物すべきを、かくてあらんよりはとかく思ひたちね」など度く言ひをこせ給へるに、……下りにけり。

元禄6年(1693)、母の誘いで「十六ばかり」の町子は江戸へ下った。側室の話は、右衛門佐と吉保間で出来上がっていたと思われる。「東にて身の置き所も物すべきを、かくてあらんよりは」との度々の勧めは、京都で手元不如意な公家の日常に甘んじるより、江戸での別な道に期待してはどうかという、年俸千石の大奥総取締に至った成功者の人生観が明確に現れた発言である。

町子吉保の側室に

側室になるにあたり、町子は田中氏を名乗った。それは「門葉譜」が、町子腹の2男児安通(経隆)・信豊(時睦)の生母を「田中氏弁子」とするのに確認できる。因みに私は「弁子」を「さとこ」と訓んでいる。

さて田中氏とは何者か。

前引の右衛門佐逝去を伝える『楽只堂年録』に、桃井内蔵允之政が登場していた。そして彼こそが田中半蔵なのである。

元禄13年(1700)、吉保の取り持ちで右衛門佐の名跡養子となった内蔵允之政は、千石を拜領し小姓組に列し、同時に桃井と改めた。

そもそも大奥勤務の女性は一生独身が掟。将軍の代替わりで大奥を去った後の心細さを予見し、多くが名跡養子を求めた。そうした中「門葉譜」には、

の略系図が載り、内蔵允尻付は、「実田中氏 妻正親町正二位大納言実豊卿妾」、「女子」のそれは、「養女 実正親町実豊卿女弁子又改町子 号理性院」とある。

内蔵允は前述のように田中氏。その妻は正親町実豊妾で、女子は内蔵允養女だという。「正親町実豊妾」とある妻は、右衛門佐その人。事実婚か否かは不詳ながら、右衛門佐と内蔵允とは少なくとも「門葉譜」では夫婦の扱いなのである。しかも右衛門佐は、夫桃井内蔵允(田中半蔵)を養子にし、町子をその養女にしたというのが上記系図の語るところ。

かくして佐は、町子を桃井の養女扱いにしたから、町子は佐の孫娘ということになった。この時桃井63歳(『断家譜』第3、195頁、巻29〈続群書類従完成会〉)、佐41歳、町子22歳。養子が養母より22歳年長で、しかも佐は41歳で22歳の孫を持つという奇妙な系図がここに完成したのである。

奇妙な系図を作り上げ、町子に田中氏を名乗らせたところに、町子の出自を極力朧化したい吉保の思惑が窺える。それは、公家の手元不如意につけ込み、下級武士の出が、公家の姫を側室に入れたと誹謗・中傷されないための大いなる配慮であったと見える。

ついでながら、堂上方を「手元不如意」と述べて来たことに関して触れておく。

元和9年(1623)7月、将軍宣下を承けた家光は参内。禁裡御料を1万石加増、2万石となした。以来宝永2年(1705)、綱吉が1万石増献、計3万石になるまで、禁裏経済は2万石で賄われていたのである。

1万石以上を大名と呼んだ当時、小大名の格でしかなかったのであるから、その経済基盤の薄さは想像に余りある。

さらに一般の公家は200石~300石が家禄の平均(『公卿諸家系図』〈続群書類従完成会〉の頭注参照。但し正親町家の家禄の記載はない)。正親町家も大同小異であったと思われ、これは吉保が家督相続した530石にさえ劣る。

右衛門佐の1千石の年禄をも勘案すると、「手元不如意」が具体的な像を結ぶ。

町子は享保9年(1724)に逝去。柳澤家の菩提寺市ヶ谷月桂寺に埋葬された。時あたかも吉里が甲府から大和郡山へ転封になる時であった。

墓石の写真を掲載したが、正面には、「理性院殿本然自覺大姉」を中央に、右に「享保九甲辰年」、左に「三月十又一日」とあり、向かって左側面には、「松平刑部少輔経隆同式部少輔時睦/實母故正親町前大納言實豊卿女」(/は改行を示す)とある。

ここでも町子は「正親町前大納言實豊卿女」であり、公通女であるのは伏せられている。

(2002年4月20日:宮川武尚 撮影)
(正面)

(左側面)


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。