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出版部

須恵器は何故受容され消滅したのか―須恵器の歴史をたどる―(渡辺一)

須恵器とはいかなる焼き物か

須恵器(すえき)は日本で最初の焼き物です。縄文土器以来の野焼き(覆焼きがより正確)と違って、斜面に穴(ないし溝)を掘ってトンネル状にした窖窯(あながま)で焼かれてつくられた土器です。窯の形や大きさは時代ごとに違いますが、大きさはだいたい全長6~8m、地面からの深さは1~2mぐらいです。在来の土器とは違い、青灰色に固く焼き締められています。磁器(伊万里焼)と同じく朝鮮半島から工人が渡来してもたらされた外来の焼き物です。ただし技術の大本は中国(China)です。

一字一音式に表された須恵器という名前は、陶器と区別するために付けられた、言わば学術用語です。古代にはスエノウツハモノなどと呼ばれ、漢字には「陶器」が充てられていました。したがってそのまま使うと、施釉品の陶器(とうき)と区別がつかなくなってしまいます。

スエは地名として現在まで残っています。たいてい古代の須恵器の窯があった所です。ちなみに弥生土器以来の在来の土器(土師器)は、土器と書いてハニノウツハなどと呼ばれ、陶器とは厳密に区別されていました。本書ではこの区別に潜む問題を取り上げています。

須恵器の渡来と消滅

須恵器の渡来は4世紀終わり頃です。大阪の泉北丘陵(陶邑窯(すえむらよう))を中心に焼き続けられ、日本(倭)在来の土師器とは別のもう一つの土器として定着します。そして須恵器の生産は、5世紀後半には各地に広がっていきます。祭祀や葬送儀礼品から日常生活用具となって古代社会に不可欠の物品となります。しかし平安時代の10世紀前半から中頃までには一部を除き焼かれなくなってしまいます。この状況は生産が盛んであった奈良時代までを考えると不思議です。なぜ消えなければならなかったのか、本書はこの疑問を文化史的観点から問い直しました。

様々な窯跡

代表的な窯跡を紹介しておきます。最古最大と呼ばれるのが陶邑窯(大阪府)です。王権と結びついた古墳時代の中央窯です。ただし平安時代になるといち早く衰退していく点も同窯の特徴で、須恵器の古代的性格をよく表しています。

また半島や大陸に門戸を開いていた場所(大宰府)に築かれたのが牛頸窯(うしくびよう、福岡県)でした。窯業面で新技術をいち早く採り入れた窯跡です。近年、史跡に指定され、須恵器の窯場らしい山がちな景観が保全されています。

さらにチャイナならぬ日本の焼き物の代名詞となっているのがセトモノ(瀬戸物)です。大本は須恵器を焼いた猿投窯(さなげよう、愛知県)です。日本のなかで唯一中国のように器質を昇華させた地域(瀬戸美濃)であり、関心が掻き立てられます。

最後にもうひとつ挙げるとすれば、南比企窯(みなみひきよう、埼玉県)です。東国屈指の窯跡であるだけではなく、須恵器の作り方や操業のあり方も須恵器の本場である西日本とはいろいろな面で違っていました。筆者の須恵器研究の出発点となった窯跡です。

「かはらけ文化」と須恵器の密接な関係

須恵器は、早くから年代の尺度として注目されてきました。考古学だけではなく文献史学でも多用されています。そのために同じ土器の編年研究のなかでもすこし特別な意味合いを帯びがちで、その代表が陶邑窯編年の画期論でした。しかしなぜ須恵器は消滅してしまうのか、従来の画期論からは明確には浮かび上がってきません。本書では、衰退・消滅側に重きを置くことで、政治史や経済史を重視しがちであったこれまでの視角では見えてこなかった、日本の古代社会とりわけ東国の特徴が捉えられる視角を得ることができました。そこでは須恵器と土師器の併存という状況にあらためて注目することが重要になってきます。

観念的になってしまいますが、須恵器を他者と感じることで成り立つ土師器と須恵器との二者関係は、東国社会に内包されていた基層文化に触れています。須恵器が消えた後、自己を一者として再意識化し、土に回帰していく指向性には、北東アジアの土器文化圏と通じ合うものがあります。さらにこの二者関係が現代にまで続く「かはらけ文化」の大本だったとすれば、日本固有の問題としても立論され直すでしょう。日本だけの話で終わらないよう、「野生の思考」(クロード・レヴィ=ストロース)とのかかわりにも一部言及しました。

文献史学の成果を考古学はいかにとり入れるか

点から始め点を徒に超えない、それが筆者の常日頃の研究姿勢です。しかし関連諸学なかでも歴史学(文献史学)は魅力的な言説に満ち溢れており、多くの誘惑にかられます。とりわけ手工業生産や流通・交易に関しては特にです。

武蔵国入間郡(現:埼玉県)には、豊富な考古資料に加え同地域に関する古代文献史料が残されています。本書では考古資料を使って、いかに文献史料に辿り着くかを示しつつ、須恵器の流通を窯の経営者(主体者)とともに論じています。武蔵国分寺創建期における瓦生産の問題を含めて、奈良時代ではいかに古墳時代的な氏族的ネットワークが強かったか、それを須恵器の交易と生産主体者像において示すことができたことも本書の特徴です。

物質研究から何を語れるのか、流通史の場合はとりわけ須恵器研究の意義として特筆されます。本書では文献史学の成果を考古学の分析として読み替えることにも重点を置きました。

以上のほか、本書では須恵器の生産や工房、窯の系譜ほか須恵器にみる列島の東西差など、須恵器研究にとっていずれも重要な課題を取り上げました。今後の研究の進展のために一定の見解を示すことができたと考えています。しかし本書が研究上の関心だけで終わることなく、須恵器に対するさまざまな関心を高める機会となってくれることを念願するものです。


[書き手]渡辺 一(わたなべ はじめ)
1950年 山梨県生まれ
1978年 中央大学文学部文学科(仏文学・国文学専攻在籍)卒業
2004年 放送大学大学院文化科学研究科文化科学専攻修了
2006年 国学院大学博士(歴史学)
各地(主に埼玉県)で発掘調査を重ね、窯跡調査を機に鳩山町に奉職(教育委員会文化財保護・町史担当)、退職後引き続き大東文化大学非常勤講師(2021年まで)

【著書】『古代東国の窯業生産の研究』(青木書店、2006年)
【編著】『鳩山窯跡群』Ⅰ~Ⅳ(鳩山窯跡群遺跡調査会・鳩山町教育委員会、1988・90~92年)