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やさしい茶の歴史

鎌倉時代中期の喫茶文化 その三――やさしい茶の歴史(十四)(橋本素子)

鎌倉時代の禅宗寺院における茶の研究

今回は、鎌倉中期の禅宗寺院と茶との関わりを見ていく。

現存する鎌倉前期に建立された禅宗寺院には建仁寺・寿福寺、中期には東福寺などがある。いずれも禅と共に顕密などが勉強できる兼修寺院であった。鎌倉中期になりようやく、曹洞宗の永平寺、臨済宗の建長寺といった、本格的な禅宗道場が建立されるに至る。

このような禅宗寺院における喫茶文化の特徴は、これまでの茶道史でも指摘されているように、僧堂の日常規範の中で茶が使用されることにあろう。それらは、「清規」(しんぎ)=僧堂での起居動作などの作法を決めた規則に定めるところである。

いっぽうでこれまでは、開山忌などの禅宗独自の法会法要、あるいは涅槃会・仏生会・成道会の「三仏忌」など顕密寺院と共通する法会・法要で茶が使用されたことは、見落とされがちであった。

最近では、当該期の高僧の「語録」の中に、「喫茶」および「喫茶去」という言葉が散見することが指摘されている。しかしこれらについては、そのまま「茶を飲んでいた」と解釈してよいものであろうか。

「仏祖家常の茶飯」をめぐって

たとえば、すでに小著でも触れたが、「日常茶飯事」の語源は『日本国越前永平寺知事清規』に見える「仏祖家常の茶飯」である。(『中世の喫茶文化』吉川弘文館、2018年)
『永平寺知事清規』は、道元のときに定められた生活規範である。そこには、

監院の職は、為公(いこう)これ務む。いわゆる為公とは私曲(しきょく)なきなり。(中略)いわゆる道心(どうしん)とは、仏祖の大道(だいどう)を抛撤(ほうさん)せず、深く仏祖の大道を護惜(ごしゃく)するなり。ゆえに名利抛(なげう)ち来り、家郷(かきょう)辞し去り、黄金を糞土(ふんど)に比し、声誉を涕唾(ていた)に比し、真を瞞(あざむ)かず、偽(ぎ)に順(したが)わず、規縄(きじょう)の曲直(きょくちょく)を護し、法度(はっと)の進退に任(まか)す。ついに仏祖家常(ぶっそかじょう)の茶飯をもって賤価(せんか)に売弄(まいろう)せざるは、乃(すなわ)ち道心なり。(後略)

とある。この難解な文章には、ありがたいことに現代語訳があるので、そのまま引用させていただく。

寺院管理の職は、公界のために勤めるのです。言う所の公界のためというのは、私情で曲げる心がないことです。(中略)言うところの道心と言うのは、仏祖のかけがえのない道を投げ捨てず、深く仏陀と祖師の偉大な道を守り惜しむのです。それゆえに名誉と利益を捨ててきたのです。家や郷里をすて、金銭を糞土のようにみなし、名声を名誉を鼻水・唾のように思い、本物を欺くことなく、偽者にしたがわず。規則のゆがみと真実を護り、きまりのありように任せていきます。ついに仏祖の日常の当たり前の在り方で、安物として売り飛ばさないのが、つまり道心というものです。(後略)
(『曹洞宗僧堂清規(三)』四季社 2003年、168頁)

ここで「仏祖の日常の当たり前の在り方」の部分が「仏祖家常の茶飯」の訳となる。つまり、道元の時代の永平寺の寺内では、茶を飲むことや飯を食べることは、当たり前のことであった、もしくは、そうあるべき姿であったことが知れる。

しかし、これまでも述べてきたように、茶を飲むことが当たり前のこととするのは、一部中央の寺院社会においてであり、俗体、殊に庶民においては、まだまだ当たり前のことなどではなかった。道元の時代の永平寺では、どのような茶を、どのようにして入手し、どの場面において使えたのか使えなかったのか、それを知る史料には恵まれないのである。

「喫茶去」の真意とは

また禅宗寺院では、毎月一日や一五日に住持が法堂で説法を行う「上堂」を行うが、説法後に「下座(あざ)、巡堂、喫茶」と呼びかける。下座は単(座席)を下りること、巡堂は堂内を一巡する事、喫茶は茶を飲むことである。つまり座席を下って、堂内を一巡し、茶を飲めということである。鎌倉中期の建長寺の開山蘭渓道隆も、上堂説法の後、「下座、巡堂、喫茶」と呼びかけている。

しかしこの場合、本当に茶を飲んだと考えてよいものであろうか。

それは、この時期の鎌倉の禅宗寺院でも、日常的に飲むことが出来るだけの量の茶を入手できたかどうか、という問題が付きまとうからである。

振り返れば、鎌倉時代中期における鎌倉の喫茶事情は厳しく、前に紹介した『因明短釈 法自相』紙背文書のごとく、鎌倉の大寺でも中央からのつてによる入手に頼り、飲み尽くしたらその年は終いとなり、翌年を待たなくてはならない程度であった。

同時期の建長寺でも、他寺からの茶の贈与は多少見られるものの、境内での茶の生産は確認できない。よって、建長寺において蘭渓が雲水たちに「喫茶」を呼びかけたとしても、彼らは物理的に茶を日常的で飲むことは不可能であったのではないか。ここにみえる「喫茶」は、一種の決まり文句であった可能性もあろう。

また、禅宗寺院では「公案」(こうあん)という、師と弟子との問答がある。道元が紹介した公案では、師の問いに弟子が答えると、師は「喫茶去」という。この場合の「喫茶去」は、「お茶でもどうぞ」という生易しいものではなく、「茶を飲んでこい」である。もっと言えば、「わかっとらん、顔洗って出直してこい」である。そうなると、この場合も本当に茶を飲んだわけではなさそうである。(舘隆志「鎌倉期禅僧の喫茶史料集成ならびに訓注(上)」(『花園大学国際禅学研究所論聚』第12号 2017年3月、[史料2-9][史料3ー1])

このように史料のなかに「喫茶」「喫茶去」等、茶に関わりのある用語をみたとしても、内容や時代によっては、茶を飲んだものと、額面通りに受け取れない場合もあるのである。


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)