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出版部

やさしい茶の歴史(一)(橋本素子)

喫茶文化史とは何か

これまで、茶の歴史を扱う分野は、「茶道史」や農業史のなかの「茶業史」であった。特に茶道史では、千利休が「茶の湯」を大成するまでのひとすじの流れを描くものであった。しかし、その流れから外れる事柄は、「茶の湯」の通史に無理に引き付けて理解されたり、逆に全く評価されなかったりと、フラットに評価されることはなかった。

そこで筆者は、これらの問題に対応するため、平成13年(2001)に、茶道史も含む日本の茶の歴史全般を扱うこととし、この分野名を「日本喫茶文化史」とすることを提唱した。

すなわち、日本喫茶文化史とは、中国からの渡来文化である喫茶文化が日本に伝来し、遊芸、宗教儀礼、政治儀礼、生産といった複数の経路を経て、16世紀初めまでには「日常茶飯事」―茶も飯も当たり前の事という言葉が示すように、庶民層にまで受け入れられる。そのうえで、日本の風土に合うように変容され、それが「日本茶」や「日本文化」として定着するまでの歴史を見る研究分野である。この際、茶の生産・流通・消費(文化を含む)を一貫して考えること、茶に関するあらゆる事柄を研究の対象に含めるものとし、それらの事柄が、歴史学全体で、どこにどのように位置づけられるものかをみることを重要視している。さらには、歴史学(文献史学)に限られるものではなく、美術史・考古学・思想史等、隣接する分野を横断して学際的に見ていくことを考えており、最終的には「日本文化とは何か」を問うことを目標としている。

三度の喫茶文化の伝来

日本には、大きく見て過去3回、当時の先進国である中国から、喫茶文化が伝来した。

一度目は、平安時代前期の9世紀前半、中国の唐から唐風喫茶文化が伝来した。唐風喫茶文化の特徴は、お茶を煮出して飲むことにあり、これを「煎茶法」という。「煎茶法」の「煎」は、「煮出す」の意味である。

二度目は、博多には院政期の12世紀初めまでに、本格的には12世紀後半、中国の宋から宋風喫茶文化が伝来した。宋風喫茶文化の特徴は、抹茶に湯を注いで飲むことにあり、これを「点茶法」という。「点茶法」の「点」は、「注ぐ」の意味である。

三度目は、江戸時代の前期の17世紀までに、中国の明から明風喫茶文化が伝来した。明風喫茶文化の特徴は、製茶段階で揉んだ葉茶を湯に浸してその抽出液を飲むことにあり、これを「淹茶法」という。そのため、お湯を注いで浸し出した抽出液を飲む現代の「煎茶」は、「淹茶法」の茶となる。

唐風喫茶文化の初見史料

近年の学会では、文化の伝来について、「誰が最初に伝えた人物であるか」ということを特定することよりも、その時期に幅を持たせ、何度も様々な人たちによって伝えられたことを重視する傾向にある。喫茶文化史でも、それぞれの喫茶文化が最初に史料に登場するのは、いつ誰のことか、ということは明らかにできるものの、それによって、誰が最初に伝えた人物であるか、ということを証明することは難しい。

唐風喫茶文化を示す初めての史料は、『日本後紀』弘仁6年(815)4月22日条である。

嵯峨天皇が、近江国滋賀韓埼(唐崎)に行幸した。次に崇福寺を訪れた。崇福寺の住職である永忠や護命法師等は、衆僧を率い、門外にお迎えした。嵯峨天皇は輿を降り、本堂に昇り礼拝した。さらに梵釈寺を訪れた。輿を停め漢詩を読んだ。皇太弟(後の淳和天皇)や群臣は、多くの者が天皇の漢詩を唱和した。大僧都永忠は手ずから茶を煮だし天皇に差し上げた。

ここで茶については、簡易に書かれ、得られる情報は限られている。しかし、ここに見える茶は、煮出した「煎茶法」の茶であるし、永忠は嵯峨天皇を茶でもてなしたことがわかる。これまでの茶道史では、茶は伝来当初は薬であった、と繰り返し語られてきた。しかし、史料が示すように、日本に伝来したときからすでに薬としてだけではなく、貴人へのもてなしに、神仏へのお供えにと、様々な用途に使用されていたことが明らかになっている。

永忠は入唐僧で、28年余り滞在の後、短期留学であった最澄とともに延暦24年(805)に帰国したという。つまりこの記事は、帰国から10年後のこととなる。言い換えれば、帰国から茶の記事の登場まで、10年の空白が生じているのである。これは、茶が種(茶実)であれ、茶苗であれ、日本に持ち帰られて植えられてから茶摘みができるまで、3~4年かかることを考えれば、一定の空白期間が出来ることは納得できよう。また唐風喫茶文化が、国家が律令制や仏教等必要としていた唐文化ではなく、その周辺にあった文化であったことも、その理由となろうか。

実は、近江行幸の前年に編纂された『凌雲集』(『群書類従 第八輯 文筆部』)をみると、嵯峨天皇は、「秋日皇太弟池亭賦天字」では「院裡満茶煙」(院裡茶煙に満つ)、「夏日左大将軍藤冬嗣閑居院」では「吟詩不厭搗香茗」(詩を吟じ香茗搗くを厭わず)と、すでに茶のことを漢詩に読んでいる。ではこのとき嵯峨天皇は、実際に茶を飲んだかと言えば、そうとは言い切れない。むしろ中国の漢詩をもとに茶を飲む場面を創作しただけで、茶を実際に飲むことがなかったものとみられる。それが翌年の近江行幸の折、永忠から茶をもてなされ実際に飲むこととなった。これに触発されたのであろうか、近江行幸後間もなくの六月三日に、畿内・近国で茶を植え、それを毎年献上するように命じるに至っている。しかし残念ながら、この法令に基づいて実際に茶が植えられて、毎年献上されたかどうかは不明である。

それに、永忠が唐風喫茶文化を日本に持ち帰った最初の人物かと言えば、そうとも言い切れない。永忠とともに帰国した最澄は、弘仁7年(816)に空海のもとにいる元弟子の泰範に茶を送っている。また、最澄とともに入唐し、最澄より遅れて大同元年(806)に帰国した空海は、弘仁5年成立の『遍照発揮性霊集』に「茶湯」と記す。これら限られた史料では、それぞれの茶の出所を、明らかにすることが出来ない。しかしながら、永忠と最澄といい、少し遅れて帰国した空海といい、同時代の入唐僧たちは、いずれも唐の寺院での修行の過程で唐風喫茶文化を身に付けていたといえよう。つまりは、それぞれが唐風喫茶文化を持ち帰った可能性が考えられるのである。

〔今回の八木書店の本〕
『凌雲集』(『群書類従 第八輯 文筆部』)


【書き手】

橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社 2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)