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柳澤吉保を知る
2021/10/8
柳澤吉保を知る 第6回:吉保の側室達―(二)正親町町子―その1―(宮川葉子)
吉保の側室6人のうち、飯塚染子に次いで側室となったのが正親町町子である。 正親町公通 公通は承応2年(1653)、正親町実豊末子として、藤谷為賢女を母に誕生した。吉保より6歳年長である。 元禄6年(1693)武家伝奏(武家との連絡にあたる朝廷の要職)、同8年権大納言、正徳2年(1712)叙従一位。山 […]
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柳澤吉保を知る
2021/09/7
柳澤吉保を知る 第5回:吉保の側室達―(一)飯塚染子―(宮川葉子)
吉里誕生 吉保には側室が6人いた。最初が貞享4年(1687)に継嗣吉里を生んだ飯塚染子である。 吉保が無嗣絶家を免れ、柳澤中興の祖となり得たのは、ひとえに吉里誕生と無事な成長に依る。染子は男児3人、女児1人をなしたが、吉里以外は4歳未満で早世。吉里のみ残ったのであるから、柳澤家の好運も危うい確率にあ […]
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柳澤吉保を知る
2021/07/27
柳澤吉保を知る 第4回:吉保と綱吉―身体に障害を持って生きること―(宮川葉子)
コラムの第3回「吉保正室曾雌定子―その2 桂昌院の叙任と定子の登城―」で、綱吉生母桂昌院が、「普通の母親以上に綱吉を気遣う必要があった」理由を、次稿で述べたいと予告した。以下がそれである。 大樹寺の位牌堂 三十数年も前、愛知県岡崎市にある松平家と徳川家の菩提寺大樹寺位牌堂でのことである。そこには、寬 […]
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柳澤吉保を知る
2021/07/5
柳澤吉保を知る 第3回:吉保正室曾雌定子―その2 桂昌院の叙任と定子の登城―(宮川葉子)
桂昌院の叙任 吉保45歳、定子43歳の、元禄15年(1702)3月9日、桂昌院(綱吉生母)が従一位に叙された。皇室との緊密な関係を育んで来た吉保の成果であった。 叙位当日、年頭の勅使・院使等(毎年3月初旬に朝廷から幕府宛てに発遣された新年賀詞伝達の公家衆。因みに浅野長矩が殿中で吉良義央に刃傷に及んだ […]
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柳澤吉保を知る
2021/06/8
柳澤吉保を知る 第2回:吉保正室曾雌定子―その1 定子の湯治―(宮川葉子)
吉保は延宝4年(1676)2月18日、父方の同族、曾雌盛定女定子と婚姻。吉保19歳、定子17歳の夫婦であった。以後正徳3年(1713)9月5日、定子が先立つまで足かけ38年共に過ごす。出世街道を驀進する夫に寄り添い、決して出しゃばらず、わきまえた賢夫人であった。然程丈夫でないため子供が授からず、吉保 […]
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柳澤吉保を知る
2021/05/12
柳澤吉保を知る 第1回:吉保誕生(宮川葉子)
徳川綱吉(1646~1709)は、江戸幕府第5代将軍であるのは申すまでもない。在職は延宝8年(1680)から宝永6年(1709)の約30年。その全期を通じ、側近とし滅私奉公したのが柳澤吉保(1658~1714)。当時将軍側近は側用人と呼ばれ、将軍と老中の間に位置して両者を取り次ぐ権力者であり、吉保は […]