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出版部

柳澤吉保を知る 第4回:吉保と綱吉―身体に障害を持って生きること―(宮川葉子)

コラムの第3回「吉保正室曾雌定子―その2 桂昌院の叙任と定子の登城―」で、綱吉生母桂昌院が、「普通の母親以上に綱吉を気遣う必要があった」理由を、次稿で述べたいと予告した。以下がそれである。

大樹寺の位牌堂

三十数年も前、愛知県岡崎市にある松平家と徳川家の菩提寺大樹寺位牌堂でのことである。そこには、寬永年間に尾張徳川義直により寄進された松平6代、家康・秀忠の8位牌と共に、家光から家茂まで12将軍の位牌が安置されていた。

12将軍の各位牌は、没後に幕府から送られたもので、寺伝は「位牌の高さは将軍の身長にあわせ」てあるという。説明札に従い家康159cm、秀忠160cm、家光157cm、家綱158cmと辿り、綱吉まで来ると、そこには124cmとあった。一瞬言葉を失う。124cmとは小学2年生程度の平均身長ではないか。

位牌は本当を語るのか

身長124cmの将軍をいきなりは想像できなかった。佞臣柳澤吉保を寵愛し、生類憐れみの令で人民を苦しめ、貨幣改鋳により政治混乱を招き、犬公方とあだ名された綱吉を、映画やテレビドラマは、威風堂々たる役者に演じさせるから、その像が刷り込まれてしまっているのである。

第一、将軍の薨去毎に身長にあわせた位牌が幕府で作られ、大樹寺へ届けられたという寺伝が、どこまで信じられるのか。評判の芳しくなかった将軍の背丈を、悪意のもとに改変し位牌が仕上げられる可能性とて皆無とは言えないのではないか。

半分否定しつつも、仮に124cmなら、従来の綱吉の人物像を、考察し直す必要を思った。しかし、大樹寺の寺伝にのみ寄りかかり、通説に異議を唱える危険を鑑み、結局お預けのまま何年かが過ぎた。

綱吉は侏儒症か

そんな中、篠田達明氏『徳川十五代のカルテ』(新潮新書119・2005年8月第7刷)に出会う。

昭和33年(1958)夏から1年半、東京芝増上寺(徳川家の菩提所)の改修工事の際、将軍家の墓も発掘され、人類学者の学術調査として遺体の計測がなされた。結果、大樹寺の位牌は、身長を語ると判断して間違いないとの結論が出た(5頁)。その上で医師でもある篠田氏は、

低身長症の原因には内分泌異常、栄養不足、愛情遮断性小人症などさまざまなものがある。綱吉の肖像画をみると均整のとれたからだつきをしており、特別な症状はみとめられない。したがって突発性あるいは生長ホルモン分泌異常による低身長症と思われる。将軍が極端に小柄であれば、いかにも威厳が足りず、綱吉にとって大きなコンプレックスになったであろう(90頁)。

と結論されていた。

大樹寺で言葉を失った「まさか」の思い。しかし位牌は本当を語っていたのだ。綱吉の人物像を考察し直す必要を思った。

元服前の綱吉と桂昌院

綱吉は、正保3年(1646)1月8日、家光4男として誕生。長兄家綱(4代将軍)は5歳、次兄亀松は4歳、三兄綱重は2歳、それぞれ綱吉より年長である。亀松は綱吉誕生の翌年夭折するが、家綱・綱重2人が上に控えていては典型的「冷や飯食い」であった。

綱吉の幼時からの聡明を見抜いた家光は、聡明故の暴走を憂慮。兄達への敬意を忘れず、兄達を補佐し、徳川一門として静謐に生きるため、儒学を学ばせるよう生母桂昌院に申し渡し、慶安4年(1651)48歳で他界した。家綱11歳が4代将軍に、綱重8歳は甲府、綱吉6歳は館林を各々領する大名になった。

身長の伸びの鈍化は、8歳頃になると次第に顕在化。本人の理解はまだ然程ではなかったかもしれないが、桂昌院は母としてどれほど心を砕いたことか。結果頼んだのが、験者の誉れ高い碓氷八幡別当、後の護国寺開山亮賢であった。

通説では亮賢は「この君たぐひなき至貴の相ましますよし」(『常憲院殿御実紀』巻三)と占う。将軍職も夢ではないと狂喜した桂昌院は護持僧として寵愛。亮賢はそこにつけ込み護国寺開山に至ったと伝わる。

我が子の将来が明るいと占われれば嬉しくない母親があろうか。しかし、桂昌院はもっと差し迫った不安からの解放を祈らせたのだと思う。どうにもならないことを、どうにかならないかと祈らせる、それこそが常の護持であった。

自我の目覚め

一方綱吉は、我が身の暗雲を払拭すべく、家光の遺言に忠実に学問に打ち込む。中でも「大学」「孝経」の慣熟度は高く、全文を流暢に誦するに到ったという(『同実紀』附録巻中)。同時に自我にも目覚め、自らを揺るがせない頑迷さ、過度の厳峻さがみられるようになる。

15歳頃のこと。当時、花押墨色から吉凶を断じる者がおり、綱重をはじめ諸侯こぞって判じさせた。家司に勧められた綱吉、「元より信ずるに足らず」と頭から否定、自らの花押は後日、祖神(家康)の前で決めるからと譲らなかった。

後年のことだが、吉保は綱吉に対し、「諸大名・諸家人は神祖の時より代々譲り受けて来た者。決して扇子鼻紙のように軽々しく扱ってはならない。違法を糺すにも、仁慈の心を持って法を用いる」必要があると、「御けしき宜しき折をうかゞひて」諌め、寛恕を度々求めた(同上、附録巻下)。恐らく「生類憐れみの令」に対しても、吉保はこの種の諌言をなしたものと思われるが、御機嫌良き折を狙っても、残念ながら功を奏さなかったようだ。

綱吉はこの性格のまま最期に至る。「忌諱の御癖」が募り、老中や昵懇の側近の進言にも耳を貸さなくなっていた綱吉、御典医を信じず自ら配剤を指揮していたから、一旦快方に向かった麻疹が悪化しても医員は手が出せない。結果、腹痛と下痢の中、意識を失い薨去するのである。

これらに見られる綱吉の頑迷さ、厳峻さは、生来の部分も勿論あったであろう。しかし、未成年からの鬱屈した心情がなせる部分も多かったのを忘れてはなるまい。

寛文2年(1662)12月、綱吉は17歳で元服した。前髪をとって童形を改めても、着衣の寸法は124cm用のそれで、以後、生涯にわたりその寸法が定着してゆくのである。

元服後の綱吉

元服の翌年の寛文3年(1663)4月~5月、家綱・綱重・綱吉3兄弟は日光に参詣した。出発は長幼順で、綱吉のそれは5月4日(家綱は4月13日、綱重は5月1日)であった。日光街道と現地での混雑回避のための別行動であったらしい。

1泊目岩槻城、2泊目古河城、3泊目宇都宮城を経て、4日目の薄暮に日光山の行殿(輪王寺本坊逍遥園ヵ)に到着。家康廟前で花押も決めたことであろう。そして帰途、封地館林に初入部を果たす。結果的に、これが綱吉の大がかりな外出の最初で最後であった。

将軍就任後も日光参詣はなされなかった。もっとも、日光へ行く時は、その途次、六義園に立ち寄りたいと言っており(『楽只堂年録』)、参詣の意思はあったらしいが、それはそれで終わった。

鷹狩も大川(隅田川)の川遊びも興味を示さなかった綱吉。というより「生類憐れみの令」を発し、動物愛護に意を用いる綱吉が鷹狩りなどする訳もないのである。

出かけるといえば、せいぜいが寛永寺・増上寺・浅草寺・護国寺参詣、自らの別邸白山御殿行き、そして当時の側用人牧野成貞邸と吉保邸への御成であった。ことに吉保邸へは生涯58回の御成を繰り返しながら、吉保が数年かけ造園し、霊元院の勅撰名所20箇所を持つ六義園へも足を運ばなかった綱吉。

共通しているのは、駕籠で先方の奥まで移動できる範囲でのお出かけであった点である。そこには身体的劣等感が、極力人目を忌避する綱吉がいる。

吉保との出会い

日光参詣の翌寛文4年(1664)9月、綱吉19歳は鷹司教平女信子と婚儀。12月、父安忠に連れられた吉保7歳が、綱吉に初御目見をなす(『楽只堂年録』第1、17頁)。

家光の命で3歳の綱吉に仕え始めた安忠。綱吉の身長問題に添い続けて来たはずである。既に124cmの域に達する吉保を、124cmの主君に御目見させる気まずさを案じた。

しかしその懸念は無用であった。530石取りの勘定頭の息男の初御目見が、直面でなされるはずもない。御座所上段御簾内に綱吉、中段・下段と隔て、域外の廊下に、父子は平身低頭で控え、牧野成貞あたりが、挨拶を述べる吉保を紹介、綱吉の応答が取り次がれて御目見終了となったはずで、吉保に綱吉の体格を云々する暇などなかったからである。

しかし、綱吉の方は、12歳年少の吉保を充分に認識できた。かつて家光が幼い綱吉を見抜いたように、綱吉も即座に吉保の才覚を見抜く。同時に弟に抱くような親しさ、愛おしさが湧き上がり、吉保の仕官を心待ちにするようになった―としたなら、後年の吉保の好運の素地は、波長の適否に存したのも否定できない。

吉保の出仕

延宝3年(1675)7月、安忠は致仕。2年前に元服した吉保18歳は家督相続、小姓組番衆として綱吉に仕官した。初御目見から11年後で、綱吉も30歳になっていた。

父が教えた主君への忠誠を充分理解した吉保。その彼を待ち受けた綱吉は、吉保に心を許し、吉保は即座に主君の状況を呑み込んだ。そして綱吉への忠誠は、何はともあれ、綱吉を好奇の目に晒さないようにすることだと判断したと推測されるのである。

話をいささかさかのぼらせる。寛文5年(1665)10月、綱吉20歳の訴えで、館林城代大久保忠辰と次男善之助はお預け、長子忠照も連座し閉門となった。長子と次男は綱吉と同世代。「綱吉卿を蔑如」した廉である。綱吉をさげすむ、そこに父子して綱吉の身体を云々した残酷な構図が浮かぶ。

この案件は安忠の心に深く刻まれた。綱吉の身長に四の五の言わせない環境は、家臣が率先して作り上げるべきものと結論した安忠は、吉保に実行させるべく教育したと思われ、吉保がその庭訓を守り抜いたのは歴史が語る。

「冷や飯食い」から将軍へ

延宝4年(1676)2月、吉保19歳は、同族の曽雌氏定子と婚姻。翌年5月、綱吉32歳に女児が誕生した。後の鶴姫である。生母は側室瑞春院。124cmの負い目がつきまとって見えた綱吉も、弟のような吉保を得、姫を授かり、次第に暖かさと明るさに包まれ始める。

一方、延宝6年(1678)9月、以前から病気がちの綱吉兄、甲府宰相綱重が34歳の生涯を閉じ、綱豊(家宣、後の6代将軍)16歳が遺跡を継いだ。

翌延宝7年5月には、綱吉に男児(徳松)誕生。

その1年後の5月6日、前年12月に痞(つかえ、腹の中の固まりのようなものが痛む病)を発病していた長兄家綱が、俄に綱吉を病床に呼び猶子にした。7日、家綱は綱吉の大納言昇格を面命、伝家の宝刀を譲る。そして8日、家綱は40歳で薨去した。

9箇月の間に、長兄・次兄を亡くした綱吉に、予想だにしない将軍職が転がり込んだ。藤原道隆・道兼二兄の相次ぐ死で、道長に栄華が廻ってきた史実の再来を思わせる。124cmは如何様にもできなかったが、亮賢の予言と母の祈りは実現したというべきか。

将軍綱吉と御側の用人吉保

35歳で将軍職に就いた綱吉の治世は29年。その間吉保は、川越城主、後に甲斐国主となった。しかし、定府(じょうふ、参勤交代せず江戸に常住すること)を通したから、川越も甲府も知らない。江戸以外の土を踏むことはなく終わったのである。

吉保の日常は、専ら側用人として綱吉の御機嫌伺いに登城することであった。例えば、江戸城廟所(紅葉山)や各寺社参詣の随行。連日の宿直―初期の10年ほどであったが―。雷嫌いの綱吉を慮り雷鳴の度の再登城。58回の御成ごとの細心な設営等々、滅私奉公に徹するのである。

綱吉関係の女性達への配慮も同様であった。桂昌院はじめ、浄光院(綱吉正室、鷹司信子)、鶴姫(綱吉息女、紀伊徳川綱教室)、鶴姫生母瑞春院、八重姫(綱吉養女、水戸徳川吉孚室)などへの、三日にあげずの御機嫌伺い。これには妻定子も足並みを揃え、後には継嗣吉里も倣う。常に綱吉から目を離さず身辺を気遣い、その安寧を心がけたのである。

通説では、吉保はごますりに長け、綱吉にへつらい出世街道を驀進したという。しかし、吉保生来の聡明さ・124cm・庭訓を勘案する時、それは違うと断言出来る。

吉保は出世をもくろみ綱吉の御機嫌を窺ったのではない。綱吉を好奇の目に晒さないよう庇い続けるうち、弟のように吉保を寵愛した綱吉が、一層吉保だけには心を許し、何事も吉保に判断を委ねるようになっただけなのである。

本来、将軍の意思を汲んでの幕政総理は老中の役目。しかし主君の思いを読めない人材が雁首を並べても役には立たない。控えめながら勘所を押さえ、綱吉への好奇な眼差しを回避、善政の補佐をなした、それが綱吉の信頼を勝ち取った吉保の状況であった。

吉保は大老格に至ったが、公式職名は側用人。彼にとって大老の職名は不要であった。綱吉の側で、綱吉のためにのみ意を用いる用人、それだけで吉保は充分だったのである。

綱吉の画像

平成15年は、家康が江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)から400年目。その記念にNHK主催「江戸開府四百年 徳川将軍家展」が、徳川家ゆかりの岡崎・東京・静岡で開かれた。

そこで歴代将軍画像の展示がなされ、発行された「図録」に収載された木村重圭氏「徳川幕府歴代将軍画像について」は大いに参考になる。

氏によれば、徳川宗家には歴代将軍の肖像画が残されているのに、どうしたわけか綱吉のそれがない。このように、総じて綱吉の画像の伝本は少なく、長谷寺・法隆寺・徳川美術館のものが知られるに過ぎないという。

このうち、「図録」収載の長谷寺蔵本は、「束帯姿で御殿内に端座する姿で描かれ、神格化された画像」(178頁)。塚本学氏『人物叢書 徳川綱吉』(吉川弘文館・平成10年)の口絵収載の徳川美術館本と比較すると、木村氏が「徳川美術館本は「伝」であり、他の二本と顔が違っている」(同頁)とされたように、表情は別人のそれに見える。

肖像画が少ない理由は何か。遺っているものが少ないのではなく、描かれなかったからではないのか。モデルになることは、身体的特異を晒すことになり得る。それを回避した結果ではなかったかと考えるのである。

 

530石から出発し、実質22万石以上の甲斐国主に至った吉保の出世は、ごますりと、へつらいの賜物のように語り継がれる傾向にある。しかし、身長124cmに焦点を合わせると、綱吉のコンプレックスに心底向き合い、それを庇い、滅私奉公に徹した吉保の人間性に与えられたご褒美であったのを認めないわけにはゆくまい。

それにしても改めて流言飛語の恐ろしさを思う。特にSNSが跳梁跋扈し、根拠なき誹謗中傷の独り歩きが大手を振るう昨今、その種の犠牲者として、三百数十年前に吉保がいたことを忘れたくはない。


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。