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出版部

柳澤吉保を知る 第3回:吉保正室曾雌定子―その2 桂昌院の叙任と定子の登城―(宮川葉子)

桂昌院の叙任

吉保45歳、定子43歳の、元禄15年(1702)3月9日、桂昌院(綱吉生母)が従一位に叙された。皇室との緊密な関係を育んで来た吉保の成果であった。

叙位当日、年頭の勅使・院使等(毎年3月初旬に朝廷から幕府宛てに発遣された新年賀詞伝達の公家衆。因みに浅野長矩が殿中で吉良義央に刃傷に及んだ事件は、勅使饗応役に任じられた長矩が、饗応指導役の高家筆頭義央に抱いた私恨であった)と共に、「藤原光子」の「御叙位によりての勅使・院使・位記使」が登城した。

「藤原光子」は、「元の御諱は宗子と称す、准后の御諱を犯すによりて、吉保議し奉りて、光子と改め」(『楽只堂年録』第3、192頁)たとある。桂昌院の諱(実名)は宗子だが、准后(敬法門院、松木宗子、東山院生母)との重なりを憚り、吉保が光子に改めさせたというのである。「藤原」は、母親の再婚相手本庄宗利の姓による(後述)。

本丸に於いて、桂昌院の位記頂戴の儀式は滞りなく挙行された。綱吉の喜びは申すまでもない。吉保を御前に召し上意があった。

三の丸様(桂昌院)御叙位の事、元来、吉保が申越すによりて、啓し行はるゝなれば、三の丸様、御老後の栄叙、公方様(綱吉)、御孝敬の大儀、悉く吉保が賛成に因れり、其上、内外の御用一人にて、統へ行ふ事、寔に器量のものと思召る、是によりて、食禄二万石を加へ下さるゝとなり、(『楽只堂年録』第3、194頁)

 上意は、
・桂昌院の叙任は、吉保の発議を受け、綱吉が朝廷に申請し実現に到った。
・桂昌院(時に75歳)の晩節を輝かす叙任は、綱吉の何よりの親孝行。それも全て吉保の助力によるものである。
・しかも、内外の御用(朝廷との交渉と幕府内の調整。宗子を光子と改名するなども含まれていよう)を1人で統括したのは、実に見事な能力である。
・以上により、食禄2万石を加増する。
という内容であった。

吉保の働き

「禁中並公家諸法度」(1615年7月、大坂夏の陣終結後直後に、金地院崇伝起草で幕府により制定された皇室・公家・門跡のあり方などを規定した法律)により、朝廷の権限の多くが制約をされてしまった当時にあって、叙任権は朝廷に残された数少ない権威であった。

幕府が武力を翳しても、朝廷の付与なしでは手にできない叙任。それを吉保は可能にしたのである。そこには和歌の威力が介在していた。

堂上文化の最たるものとして脈々と伝わって来た和歌。堂上和歌に限りない憧憬を持つ吉保は、側室町子の実父正親町公通を介し、歌壇の統帥霊元院に添削指導を賜り、院と昵懇になっていた。それを活用、綱吉に桂昌院の叙任を願い出るよう勧め、「吉保が申越すによりて、啓し行」った結果がうまく運んだのである。そして同月18日、定子は江戸城に招かれた。2万石加増と同様、吉保への褒美の意味合いであったのは疑う余地がない。

妻が江戸城に招待された――、柳澤家には実に名誉な出来事ながら、『徳川実紀』(第6篇)は、「けふ松平美濃守吉保が妻広敷にまうのぼり。御台所。五丸方を拝し奉る。奇南香(伽羅のこと)。大紋綸子などはじめ。賜物かずかずあり。奉りし品又若干なり。家司はじめ女房など、みな饗賜はる」とさりげない。

そこで以下、『楽只堂年録』(第3、199~203頁)の記録をたどりつつ、当日を再現してみたい。

いざ登城

午前10時頃。定子は「家婢」9人、「中居」2人、「半下」4人を供い登城。御台所(綱吉正室、浄光院、鷹司信子)の広敷(本丸大奥の役人詰所)から入り、御客座敷で下乗した。こうして乗物(引き戸付きの駕籠と思しい)のままで御客座敷に到るのは、かなりな厚遇である。

因みに綱吉の御成は、吉保邸内の5千坪ほどの敷地に建てられた御成御殿でなされた。そこには御成門が備わり、門外まで出迎えた吉保の先導で、綱吉の「御駕籠」は門をくぐり、「御成玄関」に至り式台での下乗となる。今、広敷を御成門に、玄関を御客座敷に見立てると、その相似から定子の厚遇が察せられるのである。

出迎えたのは、右衛門佐局と大典侍局。前者は正親町町子生母で、当時大奥総取締。後者は清閑寺熈房女で、綱吉側室である。

通されたのは、鶴姫(綱吉女、紀伊徳川綱教室、生母瑞春院)が江戸城逗留中に利用する座敷であった。将軍の姫はこのように、婚姻後も江戸城内に自らの空間(部屋)を保持していたのである。実家に娘時代の部屋を確保している女性は、現代でも珍しくはないのと同様と言えば同様なのであろうが。

そこに、早速、年寄衆・御客待衆・表使衆・中臈衆といった、大奥勤務の女中衆が挨拶に出た。続いて御台所・鶴姫・八重姫(綱吉養女、水戸徳川吉孚室)・五の丸(瑞春院、綱吉側室、鶴姫生母)の各使者がやって来て、主人の仰事を伝達する。

それらがひとわたり終わると、定子は御台所の「御守殿(主たる客間)」へ案内された。そこでは御台所から、直接熨斗(祝儀に添える熨斗蚫)を手渡され、雑煮三献(三種類)が出され、御盃事(祝儀の印としての盃の取り交わし)がなされ、種々の菓子が供された。歓迎行事の前段である。

綱吉の配慮

その終了を見図るように、綱吉が、吉保を伴って御錠口(江戸城表御殿と大奥の境にあった出入口で、双方から錠がおろされていた)から御成。

吉保邸への御成で毎度面識のある定子へ、綱吉は懇ろに歓迎の意を述べる。島台(目出度い儀式の飾物)と盃が出て、定子は盃を頂戴。それは、綱吉夫妻と吉保夫妻の、固めの盃事を意味すると理解してよかろう。

程なく綱吉は本丸に還御。折り返し届いた招請に従い、定子は本丸の表座敷へ移動する。そこで綱吉から直接熨斗を拝領し、表御殿内の所々を案内される。恐らく吉保が先導したと思われ、定子は江戸城本丸内を感動的に見てまわる希有な体験をしたのであった。

表御殿を辞する定子に、伽羅一木を、これも綱吉が直接に手渡した。同時に「大紋の綸子三反・さかな一種」の目録も授与。『徳川実紀』に「奇南香。大紋綸子などはじめ。賜物かずかずあり」とあったのを指すのであろう。ともあれ、こうした全ては、綱吉が定子を楽しませようと考案した一連であったのが忍ばれる。

桂昌院の不参加

ところで桂昌院は今回の定子登城に関与していない。桂昌院と吉保夫妻は、御機嫌伺いを大義に、三日にあげず連絡し合う親しさで、今回、定子が登城するなら、自らの居所三の丸に招きたかったはず。それなのに、登城行事に組み入れられていないのである。それは、人臣最高位に到った桂昌院に、馴れ馴れしく無節操に近づくのを憚る必要を思っていたためではなかったか。

振り返れば延宝8年(1680)8月23日、綱吉は将軍宣下を得、右近衛大将・征夷大将軍に任じられ、淳和奨学両院別当・源氏長者となり、牛車・兵仗を賜ったが、位階という点では正二位。従一位の桂昌院より下位である。

そこには、下位の綱吉が、生母とはいえ上位の桂昌院を、気安く自らの立案に参画させることへの憚りが見え隠れする。それほどに、「三の丸様、御老後の栄叙、公方様、御孝敬の大儀」であり、滅多に犯すことのならない別格であったのだ。

母親孝行

桂昌院は、京都の八百屋の娘と言われている。それは生母照光院が、八百屋仁左衛門に嫁して生んだ女子(於玉)だからである。

仁左衛門没後、照光院は於玉を連れて、本庄宗利の後妻となった。二条家の女を前妻にしていた継父宗利は、実父仁左衛門より格上。「藤原」姓の由来もそこにあり、それが功を奏し、於玉は六条有純息女於梅の方(永光院、家光側室、於万の方)の縁で京都から江戸へ。春日局(家光乳母)の指南下、家光側室に召し出され、秋野の方と称した。

正保3年(1646)正月8日、家光の4男綱吉を産むのである。於玉19歳であった。

綱吉5歳、於玉24歳の慶安4年(1651)4月、家光は48歳で薨去した。以前から将軍の子息として賄料10万石を得ていた綱吉、男児を挙げた将軍側室として居所と扶持を確保されていた於玉母子は、経済的に困窮するような環境では全くない。しかも同年10月、綱吉は上州館林15万石を領する大名になり、母子は館林御殿内に居所を移す。

しかし、幼子を庇いつつ、その成長だけを楽しみに生きるのは、心細さがつきまとおう。その上、於玉には普通の母親以上に綱吉を気遣う必要があったのだ。それは何か。この点については次のコラムで述べたい。

母子は支え合い、守り合いながら生きて行く。後年綱吉は、日毎と言うほどに母を見舞い、母と同道で護国寺(開基桂昌院)に出向き、母の提言は全て聞き届けるなど、母親孝行に徹する。この度の叙従一位も、最後に叶った母へ捧げる最高・最大の謝意であったのである。

五の丸様の御殿にて

さて定子。本丸御殿から一旦御客座敷(下乗した所)に戻った定子は、年寄衆の随伴で「五の丸様の御殿」に向かう。

大奥女性の居所の位置関係は必ずしも明確ではないが、御台所と、将軍の子女を産んだ側室、門地の高い側室には、独立した御殿が与えられていたらしい。綱吉の大奥では、鶴姫と徳松(天和3年〈1683〉5歳で早世)生母御伝之方(小屋正元女)は、五の丸に居所を得て五の丸様と呼ばれていた。

五の丸では、瑞春院(綱吉逝去後の剃髪による正式呼称)自らの熨斗授与や盃事など、「いづれも御台所様の御殿にての通り」であった。側室ながら綱吉の子女を二人まで挙げた彼女は、御台所に遜色ない扱いを受けていたのである。

定子は瑞春院・鶴姫母子とも親しく、桂昌院同様、例えば裾分け物のやり取りや御機嫌伺いなど、三日にあげず文書や物品の贈答をしていたから、初対面とはいえ、その場は和やかに弾んだことであろう。

再び御台所の御守殿へ

それが終わると、「再び上様へ御目見申上げ」る。定子が再度本丸へ移動したのか、あるいは綱吉が五の丸へ御成となったのか判然としないが、いずれにせよ、定子は綱吉に再度御目見し、七つ時(午後4時頃)御客座敷に退出する。午前10頃に登城したから、この時点で既に6時間が過ぎていた。

そこから再び御台所の「御守殿」へ参上。「御膳の御相伴」をなした。前段では雑煮と菓子が振る舞われたが、今度は御膳である。メニューの記録はないが、随伴の家臣・家婢ら何れもが「雑煮・吸い物・三汁九菜」の饗応を頂戴しているのに鑑み、「三汁九菜」以下であったとは思われない。

昼食を正午に定める現代からすると、中途半端な時刻の食事のようであるが、そのための前段の雑煮であったらしい。そして「暮過に退出」。全行程8時間余りの登城行事は、無事お開きとなった。

献上物と拝受物

『徳川実紀』には、「奉りし品又若干」とあり、吉保・定子側の献上物が薄かった印象なのだが、実際はそうではない。

『楽只堂年録』に4頁弱を割き記録される献上・拝領物のリストからは、吉保側が綱吉をはじめ、御台所・瑞春院には勿論のこと、大奥女中衆から下男・下女に到る迄、かなりな奉り物やご祝儀をはずんでいるのがわかる。今なら何百万円単位での出費であったと推測させるのである。

桂昌院の叙任に吉保が果たした役割の詳細は伝わらない。しかし、霊元院に綱吉の意向をつたえることから始まったのは確かで、吉保なしには実現しなかったのは確かである。

2万石の加増と妻の登城。吉保夫妻の人生も、こうした種類の名誉に輝くこともあったのである。

以上、あまり例を聞かない大名の妻の登城、そしてそれに連動していた桂昌院の叙任という話題を『楽只堂年録』に拾ってみた次第である。


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。