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出版部

柳澤吉保を知る 第2回:吉保正室曾雌定子―その1 定子の湯治―(宮川葉子)

吉保は延宝4年(1676)2月18日、父方の同族、曾雌盛定女定子と婚姻。吉保19歳、定子17歳の夫婦であった。以後正徳3年(1713)9月5日、定子が先立つまで足かけ38年共に過ごす。出世街道を驀進する夫に寄り添い、決して出しゃばらず、わきまえた賢夫人であった。然程丈夫でないため子供が授からず、吉保が側室5人迎えても静かに受けとめ、誕生の子の名付け親になり、側室や吉保生母佐瀬津那子への配慮も怠らず、夫が嗜む和歌への造詣も深く、家刀自として完璧であった。もっとも吉保も、定子へは充分な気遣いを見せており、結果、柳澤家中興の祖に相応しい一対として、甲斐国塩山の恵林寺(武田家菩提寺)に並んで眠るのである。

定子箱根塔ノ沢へ

元禄6年(1693)4月9日の『楽只堂年録』に、「今日、妻首途して、東の沢に赴く、桧重一組を拝領す」と定子旅立ちの記事がある。「東の沢」は「塔ノ沢」。箱根7湯の1つである。因みに7湯は、早川添いに上流に向かい、湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀と点在、芦之湯のみ芦ノ湖へ抜ける最も標高の高い所に孤立し存する。いずれも古くから湯治場として知られていた。文亀2年(1502)7月に湯本で客死した連歌師宗祇は、芦之湯に遊んでいる。

さて、前年(元禄5年)11月に父盛定を亡くした定子は当年34歳。元来の病弱養生と、失意蘇生を目的の旅であったようだ。旅立ちにあたっては綱吉から「桧重一組を拝領」。定子の旅は将軍公認であったと知られる。何人連れの旅かは不明だが、夫を亡くし、一人娘の一人っ子定子を頼る母親(貞心院)を同道していた可能性は高い。各自の侍女4~5人と、下男7~8人は最低連れていたと思われ、総勢20人程度か。

塔ノ沢は、箱根の関の手前に位置し、所謂「入鉄砲に出女」の取締外ではあるが、江戸からはかなりな距離。こうした女性の湯治旅は誰でもが出来るものではなかったであろう。

塔ノ沢での一行の様子などは記録はなく、次に『年録』に登場するのは、同年5月7日に「申の下刻、妻、東の沢の温泉より帰着す」とある記事。約1箇月に及ぶ逗留であった。

家づとの透頂香と修善寺紙

続く13日には、

妻、東の沢の家づととして、透頂香一はこ・修善寺紙一束・匂ひ袋二十・桧重壹組・干鯛壹箱を献上す、鶴姫君様、同く御袋様へも透頂香一箱・菓子重籠二組・薫衣袋二十・修善寺紙一束・干鯛壹はこ宛を進上す、

とある。7日に帰府した定子は、旅装を解くのに時間を要したらしく、1週間おいた13日になって、土産物を届けている。綱吉へは、「透頂香一はこ・修善寺紙一束」他を献上、鶴姫(綱吉女、紀伊徳川綱教室)と御袋様(瑞春院、鶴姫生母)へも「透頂香一箱・修善寺紙一束」を進上する。鶴姫母子とのこうしたやり取りは日常的であった。

土産品の透頂香とうちんこう外郎ういろうのこと。薬剤である。元(1271年、蒙古第5代皇帝フビライが建国した王朝で首都は北京)の礼部員外郎、陳宗敬が帰化し博多で創製。子孫が京都西洞院で透頂香と称し売り出し、後に小田原に伝わった。名の由来は、公家が冠の中に入れ、髪の臭気除去に用いたからという。口中を爽やかにし、頭痛を去り、痰を切る効能を持ち、戦陣の救急薬にもなった。

小田原では、外郎家が北条氏綱(1486~1541。早雲の子。伊豆・相模・武蔵・下総などを征圧、小田原城下の商業発展を図り、後北条氏の基礎を築く)に献上、名物として定着した。因みに三条西実隆は、『実隆公記』享禄4年(1531)閏5月21日の補書に、来宅した外郎青侍が「透頂香〈百粒〉」献上したと記録する。この献上は外郎家の販路拡大路線か。実隆は宗祇と親しかった。宗祇は箱根湯本で客死したように、小田原の後北条とは旧知の仲。実隆を通し透頂香を後北条へ勧める役を、宗祇に依頼したかったのではないか。小田原に透頂香が伝わった経路は、案外こうした所にあったのかもしれない。

修善寺紙は、三椏(中国原産のジンチョウゲ科落葉低木。枝が三本に分かれるところからの名。樹皮の繊維は強く和紙に利用)と雁皮(枝分れ以外、三椏に略同)を用いた修善寺産の漉き染め和紙。横縞の通った簾目と薄紅色が特徴で、極めて薄い上質の紙である。赤色は赤木(材の赤い木)の橉木(堅桜とも)を染料に用いた。江戸時代には紅紙の他、朱紙・藍紙・薄様鳥の子・かすり紙も漉かれ、「色好紙」と呼ばれ明治末期まで漉造が続く。

後北条氏が商業発展に寄与した小田原も、天正18年(1590)、秀吉の征伐で降伏。後を継いだのは、三河時代からの松平家譜代、大久保氏であった(忠世―忠隣―忠常―忠職―忠朝―忠増―忠方と続く。但し忠朝は忠常甥で養子)。以後、小田原は一層東海道の重要拠点となって行く。

定子の湯治旅時点は、老中大久保忠朝が城主であったが、この14年後の宝永3年(1706)、忠増息忠方(15歳)は、柳澤吉保養女、野宮定基(中院通茂息、同通躬弟、野宮の養子となる)女幾子と婚約の運びになる。

旅程の想定

参勤交代の旅の場合、江戸から沼津までは2泊3日の旅程である。1日目は、明け6つ(午前6時頃)江戸を発ち、六郷川(多摩川下流)を舟渡りして川崎で休憩。戸塚泊。2日目は、大磯で休憩。酒匂川を舟渡りして小田原泊。3日目は、箱根で休憩。沼津泊。これは享保9年(1724)8月朔日出立の、柳澤吉里大和郡山初赴任の折の記録である(『参勤交代年表上』―宝永7年より安永2年まで―柳沢史料集成第6巻)。

定子の旅と参勤交代を同一には扱えないが、旅程に然程差異はなかろう。従って江戸(当時吉保の屋敷は大手町)を4月9日に出発、戸塚と小田原に1泊した3日目の11日の午前中、定子一行は塔ノ沢に到着したものと思われる。

帰路も同様の旅程を見込むと、5月7日に帰着するためには、塔ノ沢を5日に出発する必要がある。結果4月11日から5月5日までの25日間が、定子の湯治期間であった計算になる。

余計なお世話といわれそうだが、身動きならない病人ならいざ知らず、25日間も塔ノ沢に籠もりきりで湯治に励むことは可能であろうか。ここに定子の旅は湯治と物見遊山を兼ねたものと考えるのである。

參勤交替では、戸塚泊の翌日は大磯で休憩し小田原に到るだけだが、戸塚から大船へ暫く西行して海側へと左折すれば、鎌倉・江ノ島が控えているではないか。

当時そろそろ庶民の旅人気も出始めていた。しかし、武家階級では、上級であればあるほど、妻女の江戸出入りが厳しい制限を伴っていたのは、「入鉄砲に出女」が如実に語る。そんな中ながら、表向きは湯治でも、定子には寄り道が許されていたのではなかろうか。

そこには、当年4年3月22日の綱吉初御成を得て、幕閣として頭角を現し始めた側用人吉保が、老中筆頭の大久保忠朝に相談を持ちかけた構図が見える。忠朝は御成時の随行員でもあった。

定子が武蔵国を出て相模国に到れば、そこは忠朝の領内なのである。定子の旅を安全に導くことは容易い。旅立ちにあたり、綱吉からの桧重下賜は綱吉公認の旅の証左だと述べたが、忠朝に対する綱吉の後押しも透けて見える。

御陰で鎌倉では、源氏の守護神鶴岡八幡宮や江ノ島の夏の海を楽しみ、小田原では、宿泊を兼ねて城内の御殿に滞在。湯本へは塔ノ沢から日帰りで出かけ、早雲寺に残る宗祇の供養塔を拝すこともなせた。透頂香と修善寺紙も、あるいは忠朝からの「お土産」であったかもしれない。

定子の行動記録が一切なく、全てが独善となってしまうが、約一箇月に及ぶ旅は、一介の主婦が身内を連れ個人的に楽しんだという種類のものでなかったようである。定子は当時としては希有な体験をしたと言えるか。


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。