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出版部

柳澤吉保を知る 第1回:吉保誕生(宮川葉子)

徳川綱吉(1646~1709)は、江戸幕府第5代将軍であるのは申すまでもない。在職は延宝8年(1680)から宝永6年(1709)の約30年。その全期を通じ、側近とし滅私奉公したのが柳澤吉保(1658~1714)。当時将軍側近は側用人と呼ばれ、将軍と老中の間に位置して両者を取り次ぐ権力者であり、吉保はその最高位に到る。「大老」との呼称でこそ呼ばれなかったものの、権勢は大老そのもの、いやそれ以上であった。「佞臣」(口先巧みに主君にへつらう邪な臣下)などとの囁は、吉保の滅私奉公ぶりへの切歯扼腕であった。その公用日記・公務記録が『楽只堂年録』(楽只堂は雅号。以下『年録』と略)である。

原本は公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会(略称柳沢文庫)所蔵で全229巻。八木書店から、史料纂集 古記録編として校訂が公刊開始されたのは2011年7月であった。以後10年余を経てこの度本文の完結に到った。公用日記の性格上、私的な事柄や感情などは極度に少ないのではあるが、それでも透けて見える幾つかの逸話を紹介しつつ、校訂に携わった者として、吉保の実像に迫りたい。

(1)実父

甲斐駒ヶ岳の麓、甲州12村に住した武田信玄の家臣団12騎を武川衆と呼ぶ。吉保の先祖は12村の1つ柳澤村に住し柳澤を称したが、吉保の父以降の柳澤家は、柳澤村と密接な関係があったわけではない。それでも吉保は武田信玄の家臣団としては勿論、武田の祖先甲斐源氏第1世、新羅三郎義光に繋がることに誇りを持ち、「新羅三郎義光後胤廿世」がもっとも輝やかしい名乗りであった。

吉保の父安忠は、慶長七年(1602)、武州鉢形(当時代官統治の出城)に、柳澤信俊を父、石原昌明女を母に誕生。元和元年(1615)、14歳で大坂夏の陣に病兄安吉の代理で供奉し徳川秀忠に拝謁、食禄160石を賜り、駿河大納言忠長(秀忠三男、家光弟)に仕官。その自刃後は、家光から兄共々扶持米を賜るようになり、寬永16年(1639)39歳で上総国内市ノ袋村に知行所を賜り、広敷番(江戸城大奥役人の詰め所)として勤務。慶安元年(1648)、家光息綱吉3歳に仕えることになる。48歳の安忠には、幼い孫そのものの主君であった。その後、慶安4年(1651)、綱吉は神田橋御殿に移り、上州館林宰相として15万石を領するようになる。安忠はそこで広敷番頭・勘定頭を勤め、三度の加恩で都合530石となった。

万治元年(1658)、58歳の安忠に待望の男児誕生。吉保である。寛文4年(1664)12月18日になった。吉保7歳の誕生日のこの日、安忠に連れられ吉保は綱吉に初拝謁する。時に綱吉は吉保の12歳年長の19歳。共に戌年生まれであった。悪名高き「生類憐れみの令」で、殊更犬の愛護を強要した綱吉と、諫めなかった吉保の紐帯は「お犬様」にあったか。結果吉保は世間の反感の矢面に立たされるに到ったとの見方もある。

それはともかく、吉保は綱吉の好みに合致したらしい。3歳時から慈育してくれた安忠の息男という状況も加わり、実弟に対するような慕わしさが芽生えたか。好悪の念が激しいと言われる綱吉だが、ここに綱吉の吉保寵愛は始まったと見て良かろう。

延宝3年(1675)、安忠は75歳で致仕。吉保18歳が家督を相続。安忠は剃髪し露休と号した。

延宝8年(1680)8月、綱吉は兄家綱(40歳)の薨去を承け、5代将軍に就任。35歳。安忠は80歳にして綱吉の輝かしい瞬間に立ち会ったのである。その6年後、貞享4年(1687)、安忠逝去。享年86歳。柳澤家の菩提寺江戸市ヶ谷月桂院に埋葬された。

(2)生母

『年録』天和元年(1681)12月20日の条に、吉保が実母を引き取る記事がある。当時吉保は24歳。以下その背景である。

延宝3年(1675)、吉保が18歳で家督相続したのは既に述べた。仕官先は綱吉の小姓組であった。翌年2月、同族の曾雌盛定女定子と婚姻。延宝5年、嫡母青木氏(慧光院)死去。延宝8年(1680)8月20日、綱吉に将軍宣下。11月、吉保23歳は小納戸(将軍近侍の雑務担当)になる。以後綱吉薨去まで、側近として片時も離れず、初拝謁以来の綱吉の寵愛に、十分応えるべく滅私奉公に励んでゆくのである。

当該天和元年4月には、禄高都合830石となる。安忠の最終禄高が530石であったのに比し、嘱望される数値である。6月、綱吉の学問の一番弟子になり、以後多くの学者を雇い入れ、常に綱吉の文治政策推進に即応できる環境を整えて行く。7月には愛宕下(現港区芝公園北方)に屋敷地を拜領し、市ヶ谷屋敷(吉保誕生の地)を返上している。そして12月20日のこととして、次の記事がある。

吉保が実母は、上総国山邊郡二の袋村の人にて、姓は平、氏は佐瀨氏なり、先年安忠に仕へて、吉保を生り、吉保をば嫡母の養給ひて、実母は故郷に帰り給へり、吉保、成人に及ぶまて、嫡母を実の母とのミおもひて、実母のいます事をしらず、其後、嫡母青木氏の病中に、吉保に乳のませたるうばありて、始て佐瀨氏のいます事を告しらせたり、是より夜る昼こひしく思ひ奉りしを、青木氏なくなり給ひて後は、いよいよかなしく歎かしき事におもひぬれど、父に申べきたよりのなかりしを、今年にいたりて漸々に申訟へて、其ありかを尋出して、家臣小野七左衛門某といへる者を遣して是を迎ふ、十二月廿日到着也、(『楽只堂年録 第一』史料纂集 古記録編・八木書店・2011年7月・19頁)

一方、柳澤家の私的系譜「門葉譜」(『柳沢家家譜集』柳沢史料集成第四巻、平成7年・柳沢文庫保存会)には、「吉保公実母/了本院」と標題し、尻付に次がある。

上総国一袋村 佐瀨氏女 為妾、懐胎。于時、因妻之嫉妬、於厩中而、生一子。保明(吉保)是也。直去家、帰農家。又、嫁農家、生一子。隼人是也。夫、死而、又再嫁二袋村大沼氏。生二人之子。天和元年辛酉十二月廿日、引取保明亭、称実母号了本院。又、択了本院親族中、為一袋村庄屋、号佐瀬図書。享保二年丁酉七月十四日卒。号了本院殿源姓妙実日相大夫人。葬于浄心寺。九十歳。

さらに歴代家族を生誕順に列記した過去帳「万歳集」(同上)には、「吉保公御実母様 佐瀬氏津那子様」とあり「門葉譜」の末尾同一の戒名・葬地・没年が続く。

以上をまとめてみよう。

彼女は、寬永4年(1627、没年よりの逆算)、上総国山辺郡一袋村(市の袋村とも表記、現在千葉県大網白里市。九十九里の海辺に近い穀倉地帯)に誕生。姓は平、氏は佐瀬氏、名は津那子。父は郷士(武士待遇の農民)階級か。知行所が一袋村(二袋村とも。双方隣接)であった関係であろう、津那子は安忠のもとへ奉公に出た。奉公の範疇は不明だが「妾」ともあり、ある程度察せられるか。そして懐妊した。当時安忠(57歳)は、正室青木氏(恵光院、青木信生女)との間に2女子をなし、1女に聟を迎え柳澤家存続を図ってはいたが、男児誕生への期待を捨て去ってはいなかったであろう。ところが津那子(32歳)の懐妊を知った青木氏(54、5歳か)は嫉妬。出産の環境も整えられない中、津那子は吉保を厩(馬小屋)で生んだという。生まれた男児は青木氏を実母と信じ育って行く。

一方子供を取りあげられ追い出された津那子は、上総へ帰り農家へ嫁ぐ。1男隼人(政信、後に柳澤を名乗り吉保の家臣となる)を生むが夫と死別。二袋村の農家大沼氏と再婚し二男児をもうける。1人は大沼主殿。後に柳澤大蔵と称し、二袋村庄屋となる。もう1人が琥芳。優秀な学生として京都妙心寺で修行後、武州多福寺(川越城を拜領した吉保が三冨開発を手がける中、農民の心の拠り所として建立した寺)の開祖となった。

吉保が実母の存在を知るのは、青木氏(70代半ば)の臨終間際。告白者は乳母。衝撃と母恋の思いが交錯するが、青木氏への遠慮から、その死去(延宝5年・1677)を待つ。ところが今度は安忠を憚り津那子の名を口に出せないまま5年程が経つ。どういう折り合いをつけたかは不明ながら、当該天和5年(1681)12月20日、24歳の吉保は、ようやく実母津那子を引き取るに到るのである。それに際して、津那子の夫の反応がないのは、既に没していたからか。先夫2人と死別した56歳の寡婦、それが当時の津那子であった。

さて引き取った母をどこに住まわせるか。安忠は逝去まで吉保と同居した。そこに昔の馴染みとばかりに津那子が入り込む余地はなかったのであろう。吉保は下屋敷を活用した。初めて拝領した霊岸島(隅田川河口西岸、現在の中央区新川)の下屋敷をそれと定めた。母の身の回りの世話役も手配する。飯塚染子である。結果、吉保は染子を側室に入れ、彼女は吉保の跡継ぎ吉里を生む。

津那子が呼び寄せられて以後も、安忠は6年間生存した。その間、1度も津那子と顔を合わせることはなかったのか。安忠の臨終に立ち会うこともなかったのか、そのあたりを語る史料はない。

吉保は、母親に出来る限りの孝養を尽くす。58回も吉保亭への御成をなした綱吉から、幾度も懇ろな労いを受けるなど、津那子の前半生では考えられない名誉も多かった。しかし津那子は幸せであったか。自身は長寿を保つが、琥芳も吉保もを見送る逆様ごとに遭う。思い出せば安忠の手がつき、吉保を産むにも厩で隠れてのそれであり、故郷に帰って嫁いだ夫2人とは死別。「波瀾万丈」の一言で片付けるのは簡単ながら、吉保を柳澤家中興の祖として歴史上に名を残させた裏に用意されていた諸々は、余りに苦すぎはしなかったか。津那子は享保2年(1707)7月14日に90歳で卒した。号了本院殿源姓妙実日相大夫人。深川の浄心寺に葬られた。

当寺は、山号法苑山、寺号浄心寺、現在も江東区平野に存する。開創は万治元年(1658)、吉保の誕生年でもある。開山は通遠院日義上人(千葉の小西檀林で修行後、当地に草庵を結ぶ)、開基は浄心院殿妙秀日求大姉(三沢局)。彼女は、三沢為毗女。信政妹。御本丸の局・お秀の方などの召し名で、江戸城本丸に勤務するうち、小堀政一(通称小堀遠州)と関係、政貞(政一五男)をもうける。そこを運よく家光長男家綱の乳母として採り上げられ、実家三沢氏に因み三沢局を名乗る。彼女は日義上人に帰依、開基(仏寺創建の財政的支持者)となったのである。家綱から百石の朱印状を与えられるなどの保護もあり、大規模で格式高い寺であった。

当所には三沢局・小堀遠州息政貞・その従兄弟(局の兄信政息)信光・信好の2人の計4人が葬られたのが『寛政重修諸家譜』に知られるが、今は三沢局の墓のみ残る。

しかし柳澤家との関係は不明なのである。津那子の他に、吉保側室横山繁子(重子とも、正徳4年没)・その腹の稲子(土屋定直・内藤政森室、享保7年没)・佐奈子(宝永5年没)、同じく吉保側室上月柳子腹の美喜子(正徳3年没)の4人が葬られており、絆は決して浅くないと知られる。しかし住職によれば、「そういう話を聞いたことはあるが、何も残っておらず判らない」とのことで先には進めないでいる。

因みに津那子の死を語る史料に吉里の『福寿堂年録』(原本柳沢文庫蔵、福寿堂は吉里の号、幼い時綱吉から拝領した扁額の文字に因む)がある。当時吉里は家督相続して9年目、父吉保を喪って4年目。松平甲斐守を名乗る32歳である。その7月14日の条に、「今夜四つ時に了本院卒去せらる」とあり、翌15日の幕府へ提出の服忌届「口上覚」には、「私父方之祖母、病気養生不相叶、昨日十四日亥中刻死去仕候」とあり、津那子は病床にあったと知られる。18日には、「今日八ツ時に、了本院深川の浄心寺へ出棺す」と葬儀が記録され、20日には「了本院の初七日なるゆへ、麻上下を着して深川の浄心寺へ参詣す」と初七日の法要執行もあって、葬送の一連の終結となっている。

このように津那子は孫に手厚く送られたのであった。


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。