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史料纂集こぼれ話

響く弦音、風切る矢―『妙法院日次記』にみる堂射【史料纂集こぼれ話(2)】

妙法院と堂射

京都市東山区に所在する天台宗門跡寺院、妙法院。ここに仕える坊官たちによって、元禄7年(1694)以降日々書き継がれた記録が『妙法院日次記』(史料纂集、既刊25冊、以下『日次記』)である。ここには門主や妙法院内の動向のほか、公家・武家との関わり、周辺地域の動静など様々な内容が記されている。そうした中でしばしばみられるのが「堂射」の記録である。

三十三間堂(蓮華王院本堂)の西側外縁を舞台に、南から北へおよそ121mの距離を無数の矢を射通すことで弓術の腕が競われた当時の堂射は、一昼夜に及ぶ「大矢数」をはじめとした様々な形式で行われており、現代の正月京都の風物詩として知られる通し矢(三十三間堂大的全国大会)とは趣を異にするものであった。

『日次記』に堂射の記録が残るのは、妙法院が三十三間堂の管理を行っていたためであり、挑戦者たちの氏名や矢の本数といった記録のみならず、運営に携わり時に実施の可否を判断していた姿もうかがえる。本コラムではこうした堂射の記録から『日次記』を繙いていきたい。

なお江戸時代の堂射史料としては他に『矢数帳』があり、実施年月日・射手名・総矢/通矢本数などの記録から堂射の実際を知ることできる。本稿では慶長11年(1606)から文化8年(1811)までの記録を載せる京都府立京都学・歴彩館所蔵本(請求記号:K1和/789.5/Y16/)から本コラムに関連する箇所を抜粋し、参考図版として掲げた。

主人は「威勢ノ人」―米田新八郎

宝永元年(1704)5月2日、米田新八郎による大矢数が行われた。この時、御紋の幕や提灯が出され、警固の役人が配されるなどものものしい警備体制が布かれたのは、彼の主人柳沢吉保が「御側衆威勢ノ人」とみられていたことによる。妙法院関係者のみならず京都所司代など幕府側の人員も動員されたこうした対応について『日次記』は、「後々ノ格にあらす」・「誠近来無比類事」と述べており、将軍側近の吉保への配慮による特例的なものであることを強調している。

史料1 『妙法院日次記』2 宝永元年5月2日条(部分)

一、松平美濃守家頼〈米田新八郞〉今〈酉刻〉より矢数あり。仍テ三十三間堂番所へ代官中被指出、御紋ノ幕をうち同御挑灯をも出シ置。其上御境内町自身番〈今酉刻より明酉刻迄〉、申付ル也。此儀後々ノ格ニハあらす。當時松平美濃守、御側衆威勢ノ人也。家来たるの故也。尤従公儀も警固之役人・雑色等數多出、従諸司代も役人等出也。誠近来無比類事共也、不可云〳〵。(後略)
※〈 〉内は細行

【現代語訳】
一、松平美濃守(柳澤吉保)の家頼米田新八郎が本日酉の刻(17時~19時)より矢数を行った。そこで三十三間堂番所へ代官たちを派遣し、御紋の幕を張り、同じく御挑灯をも出し置いた。その上御境内町の自身番を今日の酉刻より明日の酉刻まで申し付けた。こうした対応は後々の(先例となるような)やり方ではない。近年の松平美濃守は(将軍)御側衆の威勢の人である。(以上のような対応は新八郎が彼の)家来であるためである。なるほど公儀からも警固の役人や雑色などが数多く出て、(京都)所司代からも役人等が出てきている。(こうした対応は)誠に近年比類のない事々である。(前代未聞である点についてこれ以上は)云うべきではない。(後略)。

この時の新八郎の挑戦は5340本を射て2779本を通したところで射損じによって完遂できなかったが(5月3日条)、同月25日に同様の警備体制の中でふたたび挑み、翌日までに12025本を射て6425本を通している(5月25・26日条)。

図1 京都府立京都学・歴彩館蔵「矢数帳:年代」
(56丁裏、国書データベースより引用)

宝永元年五月に二度行われた米田新八郎の記録を載せる箇所(矢印部分)。26日の総矢数にずれがある点を除き『日次記』と一致する。このほか『日次記』に言及されない指南者の存在が確認できる。

一方でその後も続いた新八郎の挑戦のうち、5度目となる宝永4年(1707)4月15日の挑戦は妙法院から延引を申し渡されている。これは翌16日が先代門主尭恕法親王の忌日にあたり法要が行われるためであった。『日次記』には続けて、これまで吉保家来として「格別」の対応をしていたが他の者も含めこうした場合は停止をする、と述べられている(4月14日条)。その後改めて同月20日に挑戦が認められ、一昼夜で14059本を射て、うち6233本を通している。これは京都三十三間堂大矢数における総矢数の最多記録とされる。

この後、新八郎は宝永7年(1710)に柳沢家を辞し浪人となっている(2月5日条)。近年は稽古のため妙法院境内地に居住しているともあり、前年6月の吉保隠居を受け、弓術への専心を決めたものであろうか。『日次記』中の終見は正徳4年(1714)に妙法院近くから知恩院近くへ転居しているものである(正月25日条)。米田新八郎こと米田知益は日置流竹林派の人物であり、宝暦2年(1752)に74歳で没するまで多くの門人を育てた。『日次記』記事は若き日の知益の姿を伝えるものとしても興味深い。

なお、史料纂集には吉保の日記『楽只堂年録』(既刊9冊)も収録されている。「威勢ノ人」の日常についてはこちらを参照されたい。

放たれなかった矢―木崎與三之助・仁木竹助

享保9年(1724)2月、柴田笈之助が木崎與三之助・仁木竹助の挑戦を願い出る。二人は11才と9才という「少年之者」であり、堂の中ほどから射る「半堂」での実施が希望された。

史料2 『妙法院日次記』享保9年2月6日条(部分)

一、木崎與三之助行年拾壹才、仁木竹助行年九才。右此者共今年半堂矢數仕度候。倂少年之者之儀故、矢振次第ニ射懸ケ申度奉存候。已上。
  二月五日             柴田笈之助
此儀ハ子細有之候故、藤川吉十郞〈江〉大輔方より申遣候也、

【現代語訳】
 一、木崎與三之助、年齢十一才、仁木竹助、年齢九才。右のこの者たちが今年半堂矢數を行いたく存じます。しかし少年の者であるため、矢の飛行状態次第で射懸けるようにいたしたく存じます。已上。
  二月五日             柴田笈之助
この件は事情があることのため、藤川吉十郞へ大輔方から申し遣わしたところである。

笈之助は享保8年(1723)9月にも同趣旨の口上書を提出している。ここではそれ以前の願い出が断られたことに対し、江戸において年少者の半堂矢数が行われていることを挙げ、再度年少の門弟二人の挑戦を願い出ている(享保9年4月12日条)。また、二人のうち木崎與三之助は享保7年(1722)年3月より稽古を積み、当年正月には巻藁への肩試しで12808本を射て少しも疲れた様子をみせなかったことが「幼年前代未聞之儀」として『日次記』にも記録されている(享保8年正月9日条)。妙法院側が彼の実力を認識していたことも三度目となる笈之助の願い出を後押ししたとみられる。

これに対して妙法院は、「武芸之儀」であるため門主尭恭法親王(当時7歳)には思案しがたいとして、武家伝奏中院通躬・中山兼親を介して京都所司代松平忠周に指図を依頼している。これを受けた忠周の判断は京都三十三間堂における半堂大矢数の前例がないため認めない、というものであった(4月13日条)。二人の少年の挑戦は実現されなかったのである。

彼らのその後について、享保14年(1729)に仁木竹助が阿波国蜂須賀家客人分の平島熊八(義武、平島公方)の家来として千射に挑み500本を通している(5月9日条)。5年の時を経て、堂射への挑戦を果たしたこととなる。一方、木崎與三之助は近辺に居住し父と共に妙法院に仕えていたようで、享保12年(1727)に妙法院家来堀部長存の後任に任じられたことがみえるものの(12月15日条)、堂射挑戦の記事は確認できていない。

図2 京都府立京都学・歴彩館蔵「矢数帳:年代」
(58丁裏、国書データベースより引用)

享保14年5月9日に実施された「荒川竹助」による千射の記録を載せる箇所(矢印箇所)。通数にも異同があるが、実施日や柴田笈之助弟子である点から本条の「仁木竹助」とみられる。荒川姓となっている理由は不明。同日の挑戦者を「仁木竹助」とする史料としては、他に『月堂見聞集』(本島知辰(月堂)の見聞雑録)があるがこちらでも通数を「五百八」としている。

『妙法院日次記』の世界―近世京都の息づかい

本コラムでは『日次記』の堂射関連記事から特例の米田新八郎、却下の木崎與三之助・仁木竹助といった二つの事例をとりあげた。『日次記』には他の挑戦者も記録されており、中には本稿の三名のようにその後の足跡を追うことができる人物もいるかもしれない。「矢数」「惣矢」「通矢」などの語に注目して読んでみることをおすすめしたい。

『日次記』は堂射以外にも豊富な記事をもち、現代の我々に近世京都の様子を垣間見せてくれる。本稿がそうした魅力を伝える最初の一矢となれば幸いである。


参考文献
入江康平編『弓道資料集3 広瀬弥一弓道論集』(いなほ書房、1988)
石岡久夫『近世日本弓術の発展』(玉川大学出版部、1993)
田中潤「門跡に出入りの人々」(高埜利彦編『身分的周縁と近世社会8 朝廷をとりまく人々』吉川弘文館、2007)
入江康平『堂射の話―通し矢天下一に挑んだ武士たち』(雄山閣、2022)

〔執筆者〕中島皓輝(明治大学大学院博士後期課程)

 

前回記事:小さな記号が導く“歴史パズル”の解き方【史料纂集こぼれ話(1)】