鎌倉時代後期「金沢文庫文書」にみる喫茶文化(1)茶臼について——やさしい茶の歴史(十五)(橋本素子)
戦国時代の禅僧が見た称名寺の什物
国宝「金沢文庫文書」は、神奈川県立金沢文庫が所蔵する、鎌倉後期から南北朝期を中心とした史料群である。この4000点を超える史料の中に、約350点の喫茶文化に係る史料がみられる。
今日の本題に入る前に、戦国時代に称名寺を訪れた京都の禅僧の史料を少しばかり読んでおこう。すなわち、臨済宗妙心寺派の僧の法語などを集めた『明叔録』所収の天文20年(1551)4月26日付の南禅寺僧・東嶺智旺の「従小田原到鎌倉路次幷霊区所々」の記事である。
下舟して称名律寺に到る。則ち玉簾・天竺人筆十六羅漢・茶碗の三具足〈大〉。青葉の楓これを見る。
(『小田原市史 史料編 原始 古代 中世Ⅰ』小田原市 1995年、687頁)
称名寺は、金沢文庫に隣接する鎌倉時代中期に創建された真言律宗の寺院で、北条金沢氏の菩提寺である。
この称名寺で東嶺智旺がみたもののうち、玉簾と十六羅漢図は、現在でも金沢文庫および称名寺が所蔵する唐物である。残る「茶碗の三具足」については、若干の説明が必要であろう。まず「茶碗」とは、中世においては「磁器」を指す。また「三具足」(みつぐそく)とは、香炉・花瓶・燭台の供物の基本三点アイテムであり、折卓などに載せて据えられる。すなわち、戦国期の称名寺は、磁器製、すなわち唐物の青磁の三具足を什物として所持していたことになる。しかしこれはそろっては伝世していない。
そして、これから紹介しようとしている「金沢文庫文書」に見える茶具足(茶道具)類は、まったくと言ってよいほど、伝世していないのである。『明叔録』の書き方から察するに、すでに戦国時代には、今日金沢文庫の展示で往時の喫茶文化をしのぶ史料として示される唐物類―その際には決まって玉簾や酒海壺・花瓶など茶道具ではないものが登場するのではあるが、それらとはさして変わらない所有状況にあったものとみられる。
茶を粉末にする道具
そのようななかで、茶道具といえるものとしては、称名寺の光明院から出土した鎌倉時代の石臼の下臼が現存している。劣化が激しいが、その形状から茶臼ではないかと見られているものである。また「金沢文庫文書」といえば、茶臼と茶筅の初出史料を含む文書群として知られている。前置きが長くなったが、今日は茶臼について述べたい。
そもそも、茶を粉砕するための道具としては、唐風喫茶文化では、薬研(やげん)を使用し粉末にして煮出して飲む場合がみられる。しかし平安時代以降、茶を飲むために薬研の所持が広がりを見せたとする史料には恵まれない。
いっぽうの宋風喫茶文化では、茶臼を使用し粉末にしたものに湯を注いで飲む。
この連載の八回で触れたように、鎌倉時代前期に書かれた『喫茶養生記』の下巻「喫茶法(ちゃをきっするほう)」には、現在抹茶を点てて飲む場合に必要な二つの道具がみえない。それは、葉茶を粉末にする茶臼と、抹茶を攪拌する茶筅である。そこで、茶臼で粉砕し、茶筅で攪拌したものと想定して論を進めている。
いっぽう、最近の発掘調査では、院政期とみられる茶臼が京都で出土している。
そのようななかで、鎌倉時代中期の茶臼に係る史料が注目されている。宋代の中国五山に係る建築物の指図集『大宋諸山図』・『五山十刹図』は、それぞれ臨済宗の東福寺と曹洞宗の大乗寺に伝わる。これらに収録されている「水磨様図」は、巻末に描かれた二階建ての建物の図で、水車の力を利用して茶臼と石臼を回転させるものである。
殊に東福寺のものは、開山円爾が宋から持ち帰ったものとする言説があるが、これは先行研究によって否定されている。(清水邦彦「大乗寺蔵「五山十刹図」考」、『比較民俗研究』23 2009年3月)巷間円爾は、饅頭の祖あるいは静岡茶の祖といわれるが、それは東福寺に「水磨様図」が残り、そこに書かれた臼・茶臼が饅頭・茶の原料を粉砕するものであるところから、このような言説がみられるのであろう。そもそも円爾ではなくても、東福寺などにこの図を基に実際にこのような建物を造った、あるいは茶臼を使用したという史料はみえない。
ただし、鎌倉の建長寺に関しては、正和4年(1315)焼失後再建した状況を示す、元弘元年(1331)作成の『建長寺伽藍指図』があり、この右下部の庫裏の裏側の水辺に「臼屋」という建物が描かれている。ここには、「水磨様図」のごとく水車の力を利用して回転させる茶臼や石臼などが備えられていたことが想定されている。
そして、実際に茶臼を使用したことを示す史料となると、これと同時代の「金沢文庫文書」にみられる史料となるのである。
金沢貞顕の依頼
すなわち「金沢文庫文書」には、茶を粉砕する道具として、1126号に「茶磨」が、3182号・3189号・5953号には「茶臼」の語がみられる。
現在の茶業で、抹茶の原料となる粉末にする前の製茶した茶葉を碾茶(てんちゃ)というが、これは明治時代以降の用語である。江戸時代以前には、シンプルに「葉茶」・「茶葉」といっていた。すなわち、127号に「茶葉」、145号・196号・207号・326号・1138号・1156号・1165号・1166号・1842号・3546号に「葉茶」がみえる。
いっぽう粉砕した茶は、2014号に「引茶」、3546号に「末茶」、4474号に「粉茶」の語がみえる。
さてその茶臼であるが、この時代には誰が所蔵していたのだろうか。鎌倉時代後期4月18日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』127号)には、
何条御事候や。抑、道日上人(快賢)より茶葉三裹(か)給い候。進らしめ候。磨り認め給い候わば、悦びをなし候。恐々謹言。
四月十八日 貞顕(花押)
称名寺長老(釼阿)
とある。貞顕は、快賢から葉茶の状態で三包の茶をもらった。しかし茶臼は所持していないため、これを称名寺の剱阿のところへ送り、抹茶にしてもらうよう依頼をしている。つまり貞顕ほどの鎌倉幕府の要人クラスの人間であっても、茶臼を所持してはいなかったのである。当時は中国から輸入された唐臼が主であり、主要な寺院などが所有できる程度で、希少であったためであろう。
ただし、茶臼が庶民層にまでひろがったとみられる15世紀以降でも、武家がその菩提寺・祈願寺等、関係のある寺家に依頼して茶を磨ってもらう事例が見られる(詳細は後述する)。これについては、茶臼の希少性のみで説明できるものではない。そもそも葉茶は、茶臼で粉砕したそばから劣化がはじまるものである。寺家に抹茶に磨ってもらう、ということは、抹茶の多少の劣化も構わないということであり、それよりも茶を磨る手間を寺家に負わせることに価値を置いていたということになろう。
これは武家にとって、茶は寺家で抹茶に磨ってもらうもの。そのような慣習が、中世の社会を通じてみられた、ということを示しているのではなかろうか。
【今回の八木書店の本】
『喫茶養生記』(『群書類従 第十九輯 飲食部』[オンデマンド版])
橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師
〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)