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やさしい茶の歴史

栄西と茶——やさしい茶の歴史(八)(橋本素子)

栄西の入宋と茶

今回は、栄西と茶についてみていく。

実は、日本における「茶祖」と称される栄西ではあるが、茶に関わる史料は思うほど多くはない。『吾妻鏡』建保2年(1214)2月4日条の記事、あとは栄西自著の『興禅護国論』の一節と、『喫茶養生記』のみである。

ただし『興禅護国論』にみえる茶は、宋風喫茶文化の点茶法の茶ではない。唐風喫茶文化の煎茶法の茶(煮出し茶)である。

すなわち、建久2年(1911)に栄西が二度目の入宋から帰国する際に、天台山と天童山での師・虚庵懐敞(こあんえしょう)から送られた書を記載し、そこには栄西の業績をたたえて、

すでに石橋に至り、香を拈じ茶を煎じて、住世五百の大阿羅漢を敬礼す。

とある。つまり栄西は二度の入宋の際、天台山の五百羅漢の聖地「石梁飛瀑」(せきりょうひばく)で献茶をしているのである。この際に使用した茶は、「茶を煎じて」とあるように、煎茶法の茶(煮出した茶)であった(『興禅護国論』第五門、『日本思想大系14 中世禅家の思想』岩波書店 1972年、54頁)。

これについては、すでに日本の寺院社会で唐風喫茶文化が定着していたため、栄西が日本の寺院(比叡山など)で煎茶法を身に付けてから入宋し、天台山で煎茶法の茶を供えたと想定しても、問題はなかろう。

『喫茶養生記』にみる宋風喫茶文化

もちろん、栄西は二度の入宋で、宋風喫茶文化の点茶法の茶の製茶と飲茶法を体験しているし、それを日本に持ち帰っている。

それは、『喫茶養生記』上巻「六 調茶様」から知れる。

宋朝で茶を製茶する方法をみると、朝のうちに摘採しすぐに蒸し、すぐにこれを乾燥させる。怠け者はしないほうがよい。焙炉には紙を敷く。紙が焦げないように火を調節し、工夫してこれを乾燥させる。緩めず怠けず、一晩中眠らず、夜のうちに乾燥させるのがよい。そのあと程好い瓶に盛り、竹葉で堅く口を封じ、風を内に入れないようにすると年歳を経ても劣化しない。

宋で栄西がみた製茶法は、茶葉を摘んですぐに蒸して酸化酵素の活性を止め、乾燥炉である「焙炉」(ほいろ)の上で茶葉を丹念にひっくり返して乾燥させるものであり、出来上がったものは「瓶」に詰めていた。この当時の焙炉は、その上で揉む必要がなかったので、桟を渡しその上に紙を敷くだけのものでよかった。現在は、焙炉の上で揉むために、助炭(じょたん)という上にはめる枠組に、何重にも紙を貼り、柿渋を塗って強度を持たせている。

つぎに飲茶法である。これは下巻「一 喫茶法」にみえる。すなわち、

大変熱い湯で茶を飲む。方寸の匙で二・三匙分抹茶を入れる。多い少ないはお好み次第である。但し湯が少ない方がよい。それもまたお好み次第であるという。殊に濃いめがおいしい。茶は、飲酒や食事をしたときに飲むと、消化に良い。

とある。

まず『喫茶養生記』には、茶臼のように粉砕する道具と茶筅のように攪拌する道具について述べられていない。しかし茶を方寸の匙ですくっていることから、これが抹茶であるとみなされている。

なお、茶臼・茶筅の初出史料は、鎌倉時代後期『金沢文庫文書』となる。いっぽうで出土遺物としては、茶臼は、作成時期が11世紀後半ごろのものが平安京から出土している(桐山秀穂「中世前期の茶臼」、永井晋編『中世日本の茶と文化 ―生産・流通・消費をとおして―』勉誠出版 2020年、75頁)。そのほか九州での出土事例も報告されており、栄西のころには、日本に茶臼があったことになる。つまり、『喫茶養生記』が書かれた当時、茶臼での粉砕は可能であった。

また、ここに記されている茶の濃さについては、「方寸の匙2~3杯では濃すぎて苦くて飲めないのではないか」などの議論がなされている。そもそも『喫茶養生記』は全体を通じて、茶は「苦味」とされていることに留意したい。そのうえ、栄西が点てた茶の湯の量と茶の量がはっきりとわからず、結局は栄西自身も「お好み次第」と述べている。そのため、この限られた情報で復元を試みようとしても、推論に推論を重ねることになり、何かを確定できるものではない。

そして、この『喫茶養生記』は、帰国後すぐに書かれたわけではない、帰国から20年後の建暦元年(1211)のことである。そしてその3年後の建保2年正月に、これを加筆訂正している。『喫茶養生記』は、栄西最晩年の著書である。

つまり栄西にとって茶は、日本に持ち帰るべき文物や文化・技術としては、必ずしも優先順位の上位にランクされるものではなかったものといえよう。それよりも、経典や聖教類、あるいは法会や修法の作法、土木技術などのほうが優先されるべきである。これが『喫茶養生記』の執筆が最晩年になった理由のひとつではなかろうか。

『喫茶養生記』にみる茶の効能

そもそも『喫茶養生記』の内容は、タイトルにもある「養生の仙薬」たる茶だけではなく、桑についても詳細にその効能と用法を述べたものである。

では、本書において栄西が一番言いたかったことは何か。

茶については「養生、長生きするためには五臓を調えることが大切である。その五臓の中で一番大切なのは心臓である。心臓に効くのは苦いものである。苦いものと言えば茶である。だから茶を飲もう」ということであった。

それまでの養生や不老不死の薬といえば丹薬であり、それを作り出す錬丹術と称して、水銀など、今から見ればどう見ても身体に毒なものを使用したものが紹介されていた。これに対して栄西は、長期に服用しても副作用がなく、不老長寿の効果があるものとして茶と桑を推奨したのである(小曽戸洋『新版漢方の歴史 中国・日本の伝統医学』大修館書店 2014年、142頁)。

そして、魏の張揖の『広雅』など様々な中国の書物を多数引用して、その効能を証明しようとした。なお、これら栄西が引用した文献は、北宋の百科事典『太平御覧』巻8第867「茗」(茶のこと)の項からのまとめての引用-いわゆる孫引きであることが既に指摘されている。

ちなみに、栄西が引用した文献にみえる茶の効能をまとめると、覚醒作用、喉の渇きを止める、できもの封じ、利尿効果、意欲増進、宿便解消、脚気、五臓の不和を治す、かすみ目解消、身体を冷却するである。さらには、羽が生えるというものもある。この中には、今でも効果が指摘されているものも少なくない。

この『喫茶養生記』の内容をもとにしたとみられ、南北朝期の「往来物」で茶の効能を説くものに、「茶の十徳」がある。これについては、別の機会に紹介したい。

飲み過ぎには茶

最後に、『吾妻鏡』建保2年(1214)2月4日条をみてみよう。

己亥。晴れ。いささか源実朝の体調が悪かった。周囲の者たちがあたふたと対応に追われた。但したいしたことはなかった。これはもしかして去夜の飲みすぎのせいではないか。ここに栄西が大倉御所に御加持のために参上していたので、この事を聞き、「良薬がありますよ」といって、住職をつとめる寿福寺より茶一盞を取り寄せた。その際には一巻を副えて、茶を献上した。この一巻は茶徳を誉める内容の書であった。実朝は大変喜ばれたということである。栄西は「先月一月、坐禅の余暇にこの抄本を書いた」ということを言った。

これは、『吾妻鏡』のなかで唯一茶について書かれた箇所でもある。二日酔いの実朝に、栄西が茶と巻物を進上したこの記事のおかげで、茶の愛好家にとって実朝は、「二日酔いの将軍」としての印象が強くなってしまっている。

栄西が住職をつとめていた寿福寺から大倉御所までは、片道30分程度の位置にある。栄西が思い立って、従者などに茶と茶道具、巻物を取り寄せることを命じたとしても、可能な距離にあった。

そして、この「茶徳を誉める内容の書」一巻というのが『喫茶養生記』であり、抄本とあるので、そのダイジェスト版を進上したことになる。

さて、ここで思い出していただきたいのが、『喫茶養生記』には、「飲酒や食事の際に、茶を飲むと消化によい」とあることである。つまり栄西は、実朝に『喫茶養生記』に書いてある茶の効能を試してみせたうえで、『喫茶養生記』を進上しているのである。栄西のぬかりのなさには、思わず膝を打ちたくなるではないか。

それにしても、どうやら実朝は、茶の事をよく知らなかったようである。つまり鎌倉時代前期に茶は、鎌倉幕府の将軍でさえ知らないくらい、東国では広まっていなかったのである。ましてや庶民に至っては、まったく広まっていなかった、ということになろう。

これについては栄西も『喫茶養生記』のなかで次のように言っている。

そもそも我が国のひとは茶を採る方法を知らない。ゆえにこれを用いない。かえって謗って「茶は薬ではない」という。これは茶徳を知らないから、このようにいうのである。

つまり鎌倉時代前期の日本では、「日常茶飯事」=茶もご飯も当たり前のもの、ではなかったのである。

〔今回の八木書店の本〕
栄西『喫茶養生記』(『群書類従 第19輯 管弦部・蹴鞠部・鷹部・遊戯部・飲食部』[オンデマンド版]2013年)


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)