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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第11回: 柳澤家と甲斐国―3本の寿影(その三)永慶寺本―(宮川葉子)

第三部:甲斐から大和へ

(一)持仏堂龍華庵

吉保は自邸に持仏堂を営んでいた。隠退後それは六義園へ移され、龍華庵と呼ばれ、吉保・定子夫妻亡き後も、柳澤家の江戸の菩提所として大切に取り扱われてゆく。

龍華庵は『源公実録』や『福寿堂年録』(吉里の公用日記)、『宴遊日記』(吉里息信鴻〈のぶとき〉の六義園へ隠退後の日記)、吉保養女で黒田直重に嫁した土佐子(武川衆折井正利女)の日記『石原記』『言の葉草』(柴桂子監修 黒田土佐子著『「石原記」「言の葉草」―大名夫人の日記―』江戸期おんな史料集一・桂文庫・2008年)にしばしば登場する。

正徳3年9月5日の定子逝去後、甲斐に埋葬のため出棺(9月13日)を待つ日々、悲嘆にくれる吉保が籠もったのもここであった。

(二)大和郡山への移封

享保9年(1724)3月1日、甲斐にあった吉里38歳は、御用の筋で参府を命じられ、急遽江府に向かう。

待っていたのは、和州郡山への所替であった(3月11日)。

所替は事務的に進んだ。

6月7日、郡山城受けとり、同11日、甲府城引き渡し。

8月1日、江戸を発った吉里は、同13日、郡山に初入部。

結果吉里は、3月4日、急遽江府へ向かったきり、甲斐へ戻ることはなかったのである(以上『参勤交代年表 上 宝永七年より安永二年まで』柳沢史料集成・第六巻)。

宝永7年(1710)5月の初入国後14年近く、ここに柳澤家の甲斐統治は終わるのである。

(三)移封の余波

移封の確たる理由は未詳。

ただその後甲斐は吉保の拝領以前同様、天領(幕府直轄地)に戻るのに鑑み、幕府が掌中に収めたがった国であったのは推測可能である。

甲斐も郡山も石高は約15万石余。所謂格落ちとは映らない所替ながら、甲斐には7万余石の内高があった。

吉保が龍華山永慶寺の寺領370石を、内高で賄うことにしたように、内高は柳澤家の経済を大きく潤していたのだった。

対する郡山に内高はない。

町子腹の経隆・時睦も、甲斐で拝領の各1万石を郡山では捻出できず、経隆は越後黒川(現胎内市)、時睦は三日市(現新発田市)へ移封とならざるを得なかった。

(四)菩提寺に眠る二人

吉保が柳澤家の繁栄を願い、甲斐での黄檗宗の布教を目指し、悦峰和尚を開山に開堂した菩提寺龍華山永慶寺。

吉里はその破却を決定するのである。

寺領370石を、内高で賄えなくなったのが最大の理由であったと考える。

結果として、宝永7年(1710)8月に開堂したそれは、吉里の直接統治の間だけの存在で、正徳3年(1713)9月逝去の定子は12年、翌年11月逝去の吉保は11年、眠っただけで終わったしまったのである。

記述を正徳3年9月5日に遡らせよう。

六義園に逝去した定子(54歳)の遺骸は、同13日出棺、17日龍華山到着。21日から27日まで営まれた法要に、参勤中の吉里は参列叶わなかった。それを補うように、10月3日に到着した悦峰和尚が定子の法事を執行した。

ところで定子の法名「真光院」は悦峰の命名で、本山での悦峰の塔頭名に因むと考える。

悦峰に帰依し、定子の三七日を待つように、六義園西座敷で悦峰を導師に受戒した吉保が、法名を依頼するのは悦峰以外になかったからである。

定子の一周忌を待つように、正徳4年(1714)11月2日、吉保は57歳の生涯を六義園に閉じた。

同月8日、六義園より出棺。12日、甲斐龍華山へ入る。紫玉を導師に葬送が営まれた14日、悦峰和尚到着。15日から21日まで追善法要がなされた。

かくして定子も吉保も甲斐国菩提所龍華山で、安らかな眠りに就けるはずであった。