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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第11回: 柳澤家と甲斐国―3本の寿影(その三)永慶寺本―(宮川葉子)

 第二部 龍華山永慶寺の歴史

(一)甲斐での菩提寺建立

宝永元年(1704)12月21日、47歳の吉保は甲斐国を拝領し、翌宝永2年2月19日、甲府城を請取った。

同8月19日、吉保は菩提所建立希望を呈し許可、21日には、早速山梨郡岩窪村に、新寺表示の杭を打たせた(『楽只堂年録』第6、84頁)。続く24日、新寺の山号・寺号を穏云山霊台寺に決定。

定府の吉保は、絵図で菩提所建立地を選定。それは躑躅崎(つつじがさき。武田3代が政庁館を構えた、JR甲府駅北方約2㎞地点。現在武田神社が建つ)であった。

眼下に甲府城と城下が臨める躑躅崎なら、家中の面々に不忠・不届があっても、即刻白眼で勘気を促せるというのが理由であった。

(二)龍華山永慶寺

それに対し、当時吉保が帰依する悦峰和尚(黄檗山万福寺第8代)は、眺望がよいと遊山の人目が多く静謐な菩提所に適さない。中国では、湿気がなく、後方を山が覆う所こそ、子孫繁栄の基を築く適地だと説諭。

推薦したのは、山梨郡岩窪村。躑躅崎と、円光院(武田信玄正室三条夫人の墓所)に挟まれた、現護国神社の建つ場所であった。

寺領は370石。甲斐国の表高15万石余の他に、内高(うちだか。実質上の石高)7万8千石余を領す吉保は、内高で寺領を賄うことにする。さらに幕府に準古跡と認められた。

一端、穏云山霊台寺と定められた山号・寺号は、宝永5年(1708)4月12日、六義園逗留中の悦峰と相談の上、龍華山永慶寺と改められた(『楽只堂年録』第8、198頁)。そして同7年8月11日、悦峰を開山第1祖に、万福寺末寺として開堂、山門には吉保自筆の額が懸けられた(以上おもに藪田重守著『源公実録』〈柳沢史料集成第1巻〉参照)。

「龍華山」は、柳澤家にとって懐かしい山号。

嘗て武川筋柳沢村に存した柳澤家の菩提寺は、「龍華山柳沢寺(りゅうたくじ)」であった(コラム柳澤吉保を知る第10回で既述)。

悦峰も吉保もそれに鑑み、新寺に「龍華山」を戴いたものと考える。

但し宝永7年8月とは、前年1月の綱吉薨去を受け、同6月に吉里に家督相続、吉保は妻妾を伴い六義園に隠棲して後のこと。祖先の地甲斐に、吉保は現役で菩提寺を開くことは叶わなかったのである。

(三)唐めく龍華山永慶寺

家督を譲られた吉里が目にした龍華山永慶寺が次である。

一とせ龍華山へはしめてまうてけるに/此てらハ少将殿の心をこめてつくりみ/かゝせ給ふ所にて楼門より寺のたゝすま/ひいつれもからめきて見所おほく侍るに/今かうきて見侍るもおもしろきまゝに(/は改行)
契り置て国にたうとき法の門高くひろめん初をそミる(「積玉和歌集」巻十・545番歌〈『積 玉和歌集 雑七』〉柳沢文庫蔵。「積玉和歌集」は吉里の私家集)

宝永7年5月5日、初めて甲斐に着任した吉里。その8月に龍華山が開堂したから、恐らくこの詠はその直後と思われる。

「楼門より寺のたゝすまひ、いつれもからめきて」から、唐風伽藍の面影が浮かぶとおり、「永慶寺境内図」(大和郡山市永慶寺蔵)は、黄檗山万福寺との酷似を語る。

さらに「龍華山永慶寺諸伽藍目録」(同上)から、建立は宇治在住「黄檗山棟梁秋篠八右衛門藤原憲之」が采配を振るったのが確認でき、「からめきて」いたのは当然であった(西川広平氏・近藤暁子氏「第三部・第五章 永慶寺什物の調査」〈『柳沢吉保の由緒と肖像』山梨県立博物館調査・研究報告11〉平成27年3月)。

(四)龍華山永慶寺の塔頭

嘗て甲斐龍華山には二つの塔頭「真光庵」「霊樹庵」があった。前者には真光院定子(吉保正室)、後者には霊樹院染子(吉里生母。宝永2年5月10日逝去)の位牌が祀られ、それぞれ紫玉和尚、梅峰和尚が住持を勤めた(『源公実録』152頁)。

霊樹庵は、龍華山開堂と同月22日に石塔建立供養がなされたそれと思しい。甲斐国主吉里の生母染子は、柳澤家にとって丁重な扱いを要する女性であった。

真光庵は、定子逝去の翌正徳4年(1714)3月25日、紫玉(出自不明)が入院、4月5日に、定子の位牌を安置し供養をなしているから、大凡の建立時が想定できる。

ところで龍華山には、もう一つ忘れてはならない建物があった。

「日光准后殿」と呼ばれたそれは、清浄な場所を選定の上、二間四方でよいから新たに建立するよう吉保が命じた、常憲院(綱吉)の位牌殿である。

吉保は吉里に、毎月十日には紫玉・梅峰を先立に参拝するよう厳命。柳澤家中興として甲斐国主に至った吉保。綱吉への報恩は、子々孫々への遺言であった。