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出版部

柳澤吉保を知る 第11回: 柳澤家と甲斐国―3本の寿影(その三)永慶寺本―(宮川葉子)

第一部:禅に導かれて―吉保の参禅―

(一)龍興寺

延宝5年(1677)吉保20歳。前年には曾雌氏定子と婚姻。

その頃吉保は、起居動静に人力の及ばぬ支配力を感じ、龍興寺の竺道和尚に開示(解き明かし示すこと)を求めた(『楽只堂年録』第1、18頁)。龍興寺は定子の実家曾雌氏の菩提寺。後に吉保側室飯塚染子(嫡男吉里生母)の菩提寺ともなる。

竺道は吉保に、古来有名な公案(参禅者の考察の手掛かりに付される問題)「雲門の須弥山」を与え、以後吉保は真剣にそれに取り組んで行く。

龍興寺では竺道・雲岩・岱首座(いずれも臨済僧)に帰依。一方で、新たな展開があった。

(二)黄檗僧高泉

元禄5年(1692)4月17日、吉保は、幕府の庇護への表敬で、江戸に下った大明国の沙門高泉和尚(黄檗山第5代住持)に相見、法要を問い(『楽只堂年録』第1、100頁)、以後急速に黄檗宗に傾倒してゆく。

そもそも禅宗は、達磨(だるま。インドバラモン出身で中国禅宗始祖。6世紀初頭中国に渡り、各地に禅を伝教。嵩山〈すうざん〉少林寺で面壁九年の座禅をなしたと伝わる)が中国に伝えた仏教の一派である。

日本へは、入宋した栄西(1141~1215)が臨済禅、続いて道元(1200~1253)が曹洞禅を伝えた。鎌倉以降、この2宗派が禅寺を建立、伝道活動に勤しんでゆく。

かたや黄檗宗は布教に出遅れた。隠元(1592~1673)が京都宇治に黄檗山万福寺を開いたのは、承応3年(1654)。臨済・曹洞伝来から350年以上後のこと。それはまた、吉保誕生の万治元年(1658)の僅か7年前。吉保時代の黄檗宗は、日本での地盤確立に懸命な新規参入宗派と言えた。

しかも現在もそれのように、万福寺境内は唐風伽藍が建ち並び、中国僧が中国語で儀式をなす異国情緒あふれる寺院でもあった。

将軍綱吉の文教政策は、儒学(孔子提唱の道徳・教理を体系化した学問)を礎としていたから、吉保にとって黄檗宗は、日々研鑽を積んでいた儒学と並進できる存在であった。

吉保の傾倒は、そのあたりを起因とするように思う。勿論新しい禅文化への憧れも否定はできない。

元禄8年(1695)7月8日の『楽只堂年録』には次のようにある。

黄檗山の住僧、大明の高泉性潡和尚より、使僧琛洌来り、仏法を付嘱せらるゝよしの偈と如意を持来る(中略)、此後八月の比、袈裟を付授せらる(第1、255頁)

ここの「付嘱」、仏教用語では師が授けた教えを後世に伝えるよう弟子に託すことを意味する。吉保はまる3年の修行を経て、高泉から弟子と認められたのである。

吉保の修行は、高泉との往復書簡でなされた。その全貌は、元禄8年(1695)7月29日、『楽只堂年録』の「附録」として別冊に仕立てられ残る(『楽只堂年録』第1、258頁)。

(三)黄檗僧千呆

高泉遷化後、吉保は千呆(せんがい。第6代黄檗山主)に帰依。元禄9年(1696)6月7日、千呆を招請し、筆談での禅問答を所望した(『楽只堂年録』第2、103頁)。

続く6月20日、千呆の求めに応じ、「黄檗一流の制禁(宗門の規條)」を定めた(『楽只堂年録』第2、33頁)。

日本への上陸が出遅れたとは言え、承応3年(1654)に隠元が布教を開始して半世紀近く、宗門内の風紀は次第に乱れ、愁えた千呆は7條のたたき台(安立)を提示、吉保が認証する形で制禁は定まった。

以後、吉保の黄檗宗帰依は一層深まる。だからといって臨済宗を切り捨てはしない。柳澤家菩提寺月桂寺、曾雌家菩提寺龍興寺への喜捨は手厚く行われ続けるが、逐条は省略する。

吉保の参禅の記録は、『勅賜護法常応録』として残る。

宝永2年(1705)12月、霊元院拝領の勅題「護法常応録」と勅序を得、自序を加えてそれは成った(『楽只堂年録』第6、137頁・139頁)。