仏教学者・河口慧海の旧蔵書【立正大学・古書資料館の世界 2回】(小此木敏明)
2.大般若波羅蜜多經(明州王公祀堂本)
立正大学図書館が所蔵する慧海の和漢古書にはそれほど古いものはないが、一点だけ例外がある。それが『大般若波羅蜜多經巻第八十一』(折本1帖)である。帖尾の記載によると、紹興32年(1162)5月1日に王伯序が明州(浙江省寧波)の奉化県忠義郷瑞雲山にある参政太師王公を祀った堂に納めたものという。参政太師王公は、王伯序の父の王次翁とされる(中村菊之進「宋明州王公祠本大蔵経考」『文化』44、1984年9月)。
王公祀堂本は版木を一から作成したのではなく、1080年頃より開彫が始まったと想定される福州の東禅寺版を用い、1162年に印刷されたものという(牧野和夫「宋版一切經補刻葉に見える「下州千葉寺了行」の周邊」『東方學報 京都』73、2001年)。慧海の旧蔵書としてだけでなく重要な資料であり、野沢佳美氏の『印刷漢文大蔵経の歴史 中国・高麗篇』(立正大学図書館、2015年)にも画像付きで紹介・解説されている。
この本が慧海の旧蔵書であることは、表紙の右上に押されている「佛教宣/揚會藏/書之印」という印記により確認できる。仏教宣揚会は慧海が1920年に発足させた団体であり、慧海の旧蔵書には、この印が押されたものが多い(前掲『河口慧海請来資料解題目録』の庄司氏「解説」など)。なお、印記の見られる表紙は後に補われたものとされる(前掲『印刷漢文大蔵経』)。
ところで、帖尾の記載には、王伯序に経典を納めるように勧めた僧の名前が記されている。その人物は慧海大師清憲と言い、河口慧海と同じく「慧海」の号をもつ。これは偶然の一致だと思うが、あえて想像をたくましくし、別の可能性を考えてみた。この本を慧海自身が購入したのか、第三者から寄贈されたのかといった入手の経緯は不明だが、例えば清憲の号が入手の切っ掛けとなった可能性はないだろうか。自分のために何かを買ったり、相手に贈ったりする際に、名前にちなんだものを選ぶことは往々にしてある。これはまったくの妄想で、何の根拠もないわけだが、もしそうであれば面白い。