鎌倉時代後期「金沢文庫文書」にみる喫茶文化(3)茶の生産について②―やさしい茶の歴史(十八)(橋本素子)
茶の産地の広がり
これまで、平安時代に大内裏茶、鎌倉時代前期に栂尾茶、中期に奈良にある茶、と中央で茶が生産されていたことを示した。
今回は、鎌倉時代後期から南北朝期を中心とする『金沢文庫文書』にみえる茶の産地を抽出し、その広がりをみていきたい。
京都茶
鎌倉時代後期も引き続き、中央で茶が生産されていることが抽出される。『金沢文庫文書』では、広域的産地名として「京都茶」、名産地として「栂尾茶」が見える。
金沢貞顕が京都茶をたびたび入手することができた理由は、息子の顕助が仁和寺真乗院に入寺していたことが大きい。さらには、貞顕本人が六波羅探題に赴任していたこと、京都には貞顕の執事倉栖兼雄が在住していたこと、貞顕が檀越であった東山太子堂があったことなどがあげられよう。
まず京都茶は、「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』329号)の追而書に見える。
京都茶は、顕助をこそ頼みて候しが、下向仕り候の間、たび候人なく候。連々に申し入れ候いぬと覚え候。
貞顕は、称名寺長老の剱阿に対して、京都茶は、顕助に頼っていたが、今は鎌倉に下向しているため、茶をくれる人がいなくなってしまった。折々に他の人たちにもお願いしてみたいと思う、と述べている。
京都茶には、栂尾茶と京都や京都近郊の産地の茶も含まれていた可能性があろう。なお仁和寺は、このあと間もなく成立した南北朝期『異制庭訓往来』に、栂尾に次ぐ第2位グループの茶の名産地のひとつとしてその名が見える。茶は茶実を植えてから摘採できるまで、最低でも3~4年が必要であり、さらに名産地になるまでは10年以上を見るべきことから、鎌倉時代末期には仁和寺に境内茶園があったことが想定される。
栂尾茶
栂尾茶は、京都洛北の栂尾高山寺産の茶である。前述の通り、鎌倉時代中期の明恵の頃には、すでに境内に茶園があり、茶を生産していた。鎌倉時代後期、栂尾茶は京都茶を代表する茶となり、貞顕をはじめとする鎌倉方の人々も入手したい茶で、偽物も出まわるなど、ブランド化していた。
以下、栂尾茶を含む書状をみていきたい。
正和4年(1315)頃月日未詳「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』125号)
追って申す
栂尾茶の事、連々の進入難治に候。さりながら、顕助僧都所持せしめ候。乞い取りて進すべく候。厚紙の事、承り候い了んぬ。便宜を以って進入せしむべく候。祈禱の事、猶々御意を入れられ候わば、恐悦に候。愚状毎度御覧の後は、火中に入れ給わしむべく候。重ねて恐々謹言。
貞顕は剱阿に対して、何度も栂尾茶を贈ることは難しいが、顕助が所持しているはずなので、これを分けてもらい剱阿に贈りたいと述べている。京都の栂尾茶が入手困難な茶ではあるものの、仁和寺の顕助ならば何らかのつてがあり、栂尾茶を入手できる環境にあったということになろう。
鎌倉時代後期7月9日付「倉栖兼雄書状」(『金沢文庫文書』559号)
毎年法花経読誦の御布施茶、世上物忩に依り、遅々に及び候い畢んぬ。殊に本意に非ず候。仍って一合これを進入せしめ候。左右なく栂尾土産に候。但し、気味思わざる程に候や。猶秘計を廻らすべく候なり。恐惶謹言。
七月九日 掃部助兼雄(花押)
倉栖兼雄は称名寺に対して、法華経読誦の布施茶として栂尾茶一合を贈った。これは間違いなく栂尾土産である、とわざわざことわりを入れていることから、世間では栂尾茶の偽物が出回っていることが想定される。
偽物が出るということは、ブランドの条件のひとつでもある。しかも味や香りが思ったほどではなかったとある。茶は農作物なので、それを製茶した茶も、年によって味や香りが変わるものであり、この年の出来はあまりよくなかったようである。
鎌倉時代後期8月20日付「倉栖兼雄書状」(『金沢文庫文書』560号)
其の後公務に妨げられ、案内申さず候。伊鬱少なからず候。抑も恒例茶一合これを進せ候。今年梅(栂)尾山茗不足の際、余分山中を出でず候。種々秘計を以って奔走候なり。今年は今此の外更に以って有るべからずの由申さしめ候。御秘蔵有るべく候。恐々謹言。
八月廿日 掃部助兼雄(花押)
謹上 明忍御房
倉栖兼雄は剱阿に対して、恒例茶一合を贈ること、今年の栂尾茶は不足、つまりその年の生産量が少なく、寺内での消費を賄う程度であったため、余分が山中を出なかった。それでも様々な奥の手を使って入手につとめたところ、なんとか今回分だけを入手したが、これ以外は入手が出来ない状況である。よって心して大切に飲んでください、と述べている。
559号文書と同様に、茶は農作物なので、年によって生産量にも変化があった。この年は生葉の収量が少なく、茶の生産量が少なくなってしまったのであろう。
鎌倉時代後期「某書状」(『金沢文庫文書』2911号)
此の程は、殊に欲しゅう候いつる茶、賜り候いぬ。栂尾のと、承り候えば、殊に秘蔵し候べく候。思し召し寄らせおわしまし候。返す返す御忝く候。□□□を、よくよく御心得候べく候。折節、花島殿、これにて候程に、家、つとに参らせなどして候。
差出・充所ともに不明であるが、欲しいと思っていた茶、しかも栂尾茶をいただけたので、大切に飲みたいと思っている、とその喜びを感謝の言葉とともに述べている。いかに当時の人々にとって、栂尾茶が飲んでみたい評判の茶であったのかを知ることができよう。
125号文書以外の文書は神奈川県立金沢文庫「国宝 金沢文庫データーベース」
https://kanazawabunko-db.pen-kanagawa.ed.jp/(2025年1月18日最終閲覧)。
125号文書は『茶と金沢貞顕』(神奈川県立金沢文庫編、2005年、50頁)。
【今回の八木書店の本】
『異制庭訓往来』(『群書類従 第九輯 消息部〔オンデマンド版〕』、続群書類従完成会発行、八木書店、2013年)
・八木書店コラム「やさしい茶の歴史」(橋本素子) バックナンバー
橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師
〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)