鎌倉時代後期「金沢文庫文書」にみる喫茶文化(2)茶筅について——やさしい茶の歴史(十六)(橋本素子)
茶筅の初見をめぐって
前回、『金沢文庫文書』に含まれる鎌倉時代後期の史料が初見となる茶具足(茶道具)として、茶臼を紹介した。今回はもうひとつの事例である、茶筅についてみていきたい。
抹茶を攪拌する道具である茶筅は、後述するように「茶振(ちゃふり)」ともいい、南北朝期の玄恵『庭訓往来』「十月復状」には「兎足(とそく)」ともみえる。兎足は『原色茶道大辞典』(淡交社、1975年、667頁)によると、茶筅の古名とされる。たとえば『看聞日記』応永30年9月11日条には「御茶具足」のひとつとして、金の「莵足」がみえる。
繰り返しになるが、抹茶に湯を注いで飲む宋風喫茶文化の点茶法は、栄西『喫茶養生記』に記されるところである。私たち現代人の感覚として、抹茶を飲むためには茶筅は不可欠のように思える。しかしそこには、茶筅は登場しない。茶筅の出土事例も、戦国期まで下ることとなる。(木川正夫「茶筅状竹製品の系譜」『愛知県埋蔵文化財センター研究紀要』第一号、財団法人愛知県教育サービスセンター愛知県埋蔵文化財センター、2000年3月)
まとめると、茶筅については、宋風喫茶文化が将来された院政期から鎌倉時代中期までは空白の時代となっており、『金沢文庫文書』に含まれる鎌倉時代後期の史料が、その初見となるのである。
茶筅の初見史料
前回も登場した金沢(かねさわ)貞顕は、実時にはじまる金沢北条氏の三代目である。六波羅探題、連署等を歴任した幕府の要人であり、15代執権となるもわずか10日で辞任している。金沢氏には、鎌倉鶴岡八幡宮前の「赤橋」と、金沢の「金沢屋形」に屋形があった。その「金沢屋形」には、隣接して祈祷所にして菩提寺の称名寺があった。
さて茶筅にかかわる実際の史料にあたっていこう。
金沢貞顕から称名寺第2世長老(住職)剱阿(けんな)に充てて書かれたとみられる年月日未詳「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』104号)には、
此の間万方計会。仍って其の後事申さずに候。本意にあらず候。又一昨日の御元服の儀、風雨の難なく、天地の感あり。無為無事遂行せられ候い了んぬ。天下の大慶此の事に候。幸甚々々。兼ねて又建盞一、茶盆一枚、茶筒一対〈入茶〉、茶瓢・茶振各一、山茗
とある。書状の前半では北条高時の元服について述べ、後半では茶具足と茶を書き上げている。
北条高時の元服は、『北条九代記』によれば、延慶2年(1309)正月21日に行われたとされる。これによるならば、書状の書かれた日は、延慶2年正月23日となろう。
後半の書き上げられた茶具足は、茶を飲む器である建盞、建盞を載せる茶盆、抹茶を入れた茶筒一対、茶瓢=茶杓、茶振=茶筅であり、ついで山茗=山茶がみえる。しかし、これらをどうしたのかということについては不明である。
なお「山茶」については、山地で採れた茶という意味もあるが、現在でも屋敷林を「山」というように、地形的には平地であっても屋敷林に植えられた茶をいうことも想定される。いずれにせよ、貞顕周辺では、茶筅を使って抹茶を攪拌していたことは確実であろう。
称名寺から茶筅をもらう
さらに鎌倉時代後期2月26日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』164号)には、
花のさかり何比に候。承るべく候。
行證御房、御使としての光臨、恐悦候き。抑ちやせん一、明日入る事候。いたく大に候わぬを給い候わば、悦び入り候。恐惶謹言。
二月廿六日 貞顕
方丈
とみえる。ここでは、貞顕が剱阿に対して「明日茶筅一本が必要になった。あまり大きくないものを頂きたい」といっている。よって称名寺は、「明日茶を点てるために茶筅が欲しい」という貞顕の急な要求にも対応できるように茶筅を複数所持し、それを分けることができる環境にあったものといえよう。
ただし、ここで貞顕が茶筅を使って茶を点てることから何やら「茶会」を行っていた、と結論付けるのは早計であろう。むろんその可能性も否定しないし、その場合には闘茶会である可能性がある。
しかしそれだけではない、僧俗問わず客人の接客や飲食饗応(食事のもてなし)の一環として茶を出す、あるいは屋形内での仏事で供物として茶を供える、その仏事に参加した僧侶へのもてなしとして茶を出す可能性があることも指摘しておこう。これら茶の消費については、次回以降に述べたい。
また茶筅は消耗品であることから、称名寺で作られていた可能性もあるが、購入したことも想定しておきたい。なぜならば、後述するように、鎌倉時代後期には茶が市場で販売されていたことが確認できるため、抹茶を攪拌する茶筅も販売されていたことが想定できるからである。
絵画史料に描かれた茶筅
前掲の史料で貞顕は、「あまり大きくはない茶筅が欲しい」としたが、この時期の茶筅の形状について考察しておきたい。まずこの文言から想起されるのは、『慕帰絵』に描かれている茶筅の姿である。
観応2年(1351)に成立した『慕帰絵』全10巻は、本願寺第三世覚如の行状について描いたものである。うち、巻5第3段には、広間で僧俗が寄り合い歌集を編纂する様子が描かれているが、今回はそれに隣接する台所に描かれた膳棚の上を注視して欲しい。
・慕帰絵(模本) 巻5第3段
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
すなわち、上段には台付きの建盞と茶入が載せられた2つの大きな朱塗りの丸盆が見えるが、その合間には、2本の大ぶりの茶筅が描かれているのである。しかもこれらの茶筅は、2本ともに横倒しにされているのである。これが成立年のわかる絵画史料に描かれた茶筅の初見である。
そして茶筅の形状は、穂に膨らみのない「ささら」形である。現代の茶道で使用されている茶筅のように、外穂・内穂に分け、穂先に行くほど広がるものではなかった。
ちなみに、現在の茶道において、まず茶筅が横倒しにされることはない。もしもそのようなことがあれば、その茶筅を持って速やかに水屋に退き、清潔な茶筅と替えて持ち出さなくてはならない。それにもかかわらず、茶筅は膳棚の上で、大胆にも横倒しにされているのである。そもそも大きい茶筅は自立しにくく、転がるよりは最初から横倒しにした可能性もあろう。これは、同じ名称の同じ用途の道具であっても、時代によって形状も異なり、よって常識もマナーも変わるということの好例ではないか。
残念ながら『金沢文庫文書』の鎌倉時代末期の史料だけでは、茶筅の形状までは知ることができない。しかし、時代の近接している南北朝期の絵画史料を併せて見ると、鎌倉時代末期の茶筅も「ささら」形であったことは想像に難くなかろう。
【今回の八木書店の本】
『看聞御記』(『続群書類従 補遺二』下巻 八木書店 2013年)
「庭訓往来」(『群書類従第十三輯下 文筆部消息部』八木書店 2013年)
橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師
〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)