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創業者 八木敏夫物語

収集家の心生かす【創業者 八木敏夫物語6】

toshi6昭和46年11月14日、4年前のこの日に亡くなった天理教・中山正善ニ代真柱の墓前に、1冊の本が供えられた。以後15年をかけることになる「天理図書館善本叢書」刊行の第1回配本『和名類聚抄・三宝類字集』である。
天理図書館は、収集本の質の優秀さ、豊富さで有名だ。本に詳しい外国の人の口にのぼる日本のライブラリーは、国会図書館よりも天理の名が先だというほど世界屈指のものである。
「これだけのコレクターは、もう出ることはあるまい」といわれる二代真柱が集めた努力の結晶だ。その日本古典籍の宝庫から厳選した本を「善本叢書」として完全複製する。八木書店の刊行である。
墓前の八木敏夫は「良い本がそろったら、蓄えるだけでなく、多くの研究家、愛書家の役にたてたい」と言っていた、真柱の生前の言葉を思い出した。
真柱は東大の学生時代から「本の街」に通ってきた。八木が店員をしていた一誠堂書店で、反町茂雄先輩が相手をしている姿を初めて見た。お使いで本を届けに行き、言葉を交わしたのが、本を通じた長い交際になる始まりだった。本好きの二代真柱が「まあ借りて帰ろう」といった本で返品されたものはなかった。
第一回の配本を飾った『和名類聚抄』はわが国最古の漢和辞書、平安末期の古写本だ。反町が天理に収めた本である。国宝、重要文化財を含めた多くの良書が彼から天理に入っている。
いま反町は愛書家から「古書籍商の中の古書商」と言われる。その昔、八木を神戸から神田に呼んだ先輩は「本の街」に住まず、店を持たず、時に出す豪華な目録で古書の注文をとる。そこには彼が見つけ出した、どえらい本が掲載され、仲間やコレクターを驚かせる。
「善本叢書」シリーズに選ばれた多くの本が反町から天理に納められたものだ。『和名類聚抄』と同じ本に入っている『三宝類字集』も平安末期の漢和辞書。これもフランク・ホーレーから反町に移った。ホーレーは真柱の強力なライバルであるコレクターだった。昭和32年、この書が載った反町の分厚い『弘文荘善本目録』を、ある祝賀会の酒席で手にした真柱は「こんな目録をみているといくら飲んでも酔わんなぁ」と黙々と見続け、飲み続けたことを反町は印象深く記している。
しかし61年秋、15年をかけた92巻の最後の配本は、八木が天理に納めた、きりしたん版『落葉集』が飾った。八木書店創業50年記念の古書目録のトップに掲載された『落葉集』だ。巡る本と人の縁。
この大仕事の責任は敏夫の息子・壮一が当たった。活字でなく厳密な影印複製技術で現物の雰囲気に近づけ、長期保存を目指す中性紙の使用など、力を入れた仕事となった。刊行途中の昭和59年、大雪だった八木書店50年記念式にきた中山善衛三代真柱は「二代目は普通に出来て当たり前と世間は見る」と二代目の壮一を励ました。この日敏夫は社長を壮一に譲った。
この仕事は『古事記』『日本書紀』など伊勢神宮が秘蔵する資料を複製するという「神宮古典籍影印叢刊」につながった。いま八木書店の出版は、書誌学と国文・歴史を得意とすることで知られている。
反町も八木も、出版を目指して古本店の店員から勉強しだした。しかし反町は埋もれている古書を世に出し、もっと役に立つ場所に納まることに情熱を燃やし続ける。日本の古典籍は世界で「一級も一級」の文化遺産である――彼の情熱は、その著書からも伝わってくる。『紙魚の昔がたり』『日本の古典籍』『天理図書館の善本稀書』『一古書肆の思い出』シリーズ……。
八木は目指した出版を実現している。そして反町の著書の多くが八木書店からの出版だ。交友は60年になる。