デパートで「勉強」【創業者 八木敏夫物語4】
神保町・古書街の中心は空襲に焼け残った。日本古美術の権威だったウォーナー博士は日本の古都を救う努力をした。胸像が八木敏夫が住む鎌倉の西口駅前にある。古書街も、東大国文で学び谷崎潤一郎の親友だったエリセーエフ・コロンビア大学教授の進言があって戦火を免れ……という話がある。東京のこの小さい一角を? しかし現実に残った。その価値は計り知れず「本の街」がこうして続く。
昭和21年春、八木は復員した。すずらん通りの「古書通信社」の社屋も残っていた。だが戦地にいて休刊中に人手に渡っている。露店の古本屋が増えたのが八木にはめずらしく映った。平和が来て、みんな本に飢えていた。終戦の年、ざら紙で無とじの文芸雑誌『新生』が即日13万部売れ、『日米会話手帳』がたちまち300万部を超えたとか。終戦の年8点しか出なかった岩波文庫も翌年は4倍の出版になる。今日まで息長く読まれるエンゲルス『空想より科学へ』など禁圧されてきた社会科学部門が目立った。
復員後、京都・三条の本屋でたまたま会った天理教の中山正善二代目真柱に「うちに来ないか」と言われた。本好きの真柱は、学生時代から神田によく足をはこび、八木の勤めた一誠堂にもきていた。だが八木は独立していたい。
いい話があった。古書店ができそうなのだ。そのころ、デパートが古書業者の出店を歓迎した。今では想像もできないが、一流デパートの売り場はガラガラだった。並べる商品がない。「なんでも並べてほしいという感じでした」。三越古書部には、八木がかつて勤めた一誠堂が入っていた。八木は上野・松坂屋に誘われた。
21年8月、『朝日新聞』に「古本買い入れ・松坂屋古書部」の広告を出すと大当たり。売り手が押し掛けた。みな現金が欲しいのだ。この春の「金融緊急措置令」いわゆる新・旧円の切り替えで、いくらお金を持つ人でも、家族の人数に合わせた一定の生活費しか使えない。財産があっても現金がない、という世の中だった。事があると家にあるものを換金する。「タケノコ生活」なる言葉が出来た。蔵書を売りに来た人で、八木のお金がたちまち足りなくなった。5万円をデパートから借りた。「売り上げなしに借りるのは松坂屋始まって以来」と店の評判になった。
昭和39年ILAB第18回世界大会 9月開店。ドンドン客が来た。上品な婦人が風呂敷包みで何回も足を運ぶ。古書店が家に来てほしくない、という人もいる。この名乗った婦人は有名な出版者の未亡人だった。樋口一葉関係のものがたくさんある。『一葉全集』はこの出版社から出ている。なかに『一葉日記』の原稿があった。「原稿・手紙などの肉筆物で、明治以降金銭的に評価の最も高いのが、一葉なのです」。若死にした作家の自筆資料の新しい発見は限られる。「これはウブい話だ」。仲間うちの多くの目にふれていない、いいものの意だ。だが違った。一葉の自筆でないのが買ってからわかった。一葉の妹・邦子が出版者の家にいた時、姉の日記を写したものだ。とても似ていた。「写本」を指摘した国文学者塩田良平は「自筆日記は所々破れてなくなっている。この写しには全部あるから学問的には貴重だ」と慰めた。「この世界ではソンをしたことを、いい勉強をさせてもらった、といいます」
復刊した「古書通信」も「上野・松坂屋」を発行所にした。古書コレクター・日本経済新聞社長の小汀利得が「インフレと古本」の一文を寄せ「今は買うより売る時代」といった。そんな時代だった。
商品が増えて、次第にデパートがデパートらしくなっていく。それにつれて古書部は2階から5階へ、中2階へ。歓迎されなくなってきた。
八木は6年余で松坂屋を撤退した。