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創業者 八木敏夫物語

相場速報を月二回【創業者 八木敏夫物語3】

toshi3昭和9年1月、八木敏夫は5年勤めた古書店一誠堂を辞め『日本古書通信』を創刊した。古書市場の相場をニュースの中心にする新聞だ。
1月25日の創刊号は16ページ。主幹八木は「多岐多端なる実際的相場を迅速正確に」「自らの目で見、耳で聞くかの如く知らしむるをその任務と目的とする」創刊の辞を書いた。東京外語の先生で愛書家のフランク・ホーレーが、毎週6千の「捜し物」が載る古書の週刊誌など、外国の例を挙げ創刊を祝した。
メーンは古本市場の相場速報だ。「1月6日東京・一心会初市蘆花全集 四六版 20冊 4円30銭……」とか。その他古書籍界のニュースに「姉崎嘲風、美濃部達吉ら11博士が東大を退官」「東陽堂に可愛い赤ちゃん誕生。美代子と命名」などの小雑報。
月二回の発行で4月10日付の第6号には岩波書店主茂雄のインタビューが載った。八木主幹に対し「私が初め古本屋を開いたのは別に抱負、経倫があったからではなかったのです……」と、岩波はテーマ「古本屋の思い出と現在の感想」を語りだす。「本の街」に暮らして5年、岩波の姿はしばしば街で見た。しかしこうして話すのははじめてであった。思えば八木の現在がある「転機」も、岩波文庫の誕生があったからである。岩波は『古書通信』にその後しばしば登場するが、八木はこのことを彼には話さなかった。
全国的に古書相場を知らせるのは、日本ではじめてのことだ。全国の業界の支持を得た。発行所は三崎町の印刷屋の隣の洋服屋の2階の下宿である。全国からくる購読金に下宿のおかみがびっくりした。商業学校だけで、編集やペンの力が足りないと思った八木は明治大学の夜学部で新聞学を学びだした。26歳になっている。
『古書通信』発刊も、八木を神戸から連れてきた反町茂雄先輩の協力があった。反町は八木の少し前、一誠堂書店をやめ独立して、やがて「古書籍商中の古書籍商」といわれるようになる道を進み出していた。2人を含め研究誌『玉屑』で磨きあった”一誠堂の友”たちは、ずっと後までもこの街で仲良しであろう。
太平洋戦争前。紙がなくなっている。雑誌同士の統合がないと紙の配給がもらえなくなった。太平洋戦争の始まった月、ある雑誌と統合し続刊を認められたが、空襲が激しくなった19年末、172号をもって休刊した。八木の弟福次郎が預かり、八木自身は、その年の春召集されて中国で戦っていた。
「本を愛した兵隊」の話を聞く。いや、軍部が、戦線の将兵に慰問品として配ったこともあるのだ。陸軍は特別の紙を岩波に配給し、昭和15年と2年後に各10万部の岩波文庫の特価納入を命じている。同書店の記録では前回にジョルジュ・サンド『愛の妖精』、永井荷風『おかめ笹』など、後年はスタンダール『カストロの尼』、泉鏡花『歌行燈』、ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』など。こうした本が海を渡ったのであろうか。軍部のだれが、この戦時色を感じさせない文庫を選んだのだろうか。
昭和28年2月2日 古書通信座談会 八木は本を読めなかった。重い機関銃の部品を担いで戦い、行軍した。「出征の時もらった旗も重いと捨てたものもいた。私は古本市の夢をよく見ました」。終戦。抑留中に偶然見た中国語の新聞に、東京のオランダ大使館にいたグーリックさんが写っていた。本好きで八木の『古書通信』にも書いてもらったことがある。南京の外交団団長になっていた。本で結ばれたうれしい偶然。その後中国側はとてもよくしてくれた。
『日本古書通信』は八木の復員後、昭和22年6月15日付で復刊する。1年前亡くなっていた岩波茂雄の遺志で、終戦後の同書店発行の出版物が中国の大学に寄贈される、とその号が伝えている。