キリシタン文献をMissionary Linguistics(宣教に伴う言語学)の視点から読み解く―『キリシタン語学入門』の刊行―(岸本恵実・白井純)
『キリシタン語学入門』の出版まで
本書『キリシタン語学入門』の出版計画は、コロナ禍が始まる少し前、講義だけでなく演習でも用いる教科書と、日本語史研究を志す研究者向けの手引き書の必要性について、岸本と白井の編者二人が意気投合したことに始まった。
白井ゼミでは学生向けに、既成のシリーズ名に倣った「キリシタン版を読む人のために」という自家製の資料を配付していたが、常々、キリシタン版についてのまとまった教科書が欲しいと思っていた。演習であれば「とりあえずやってこい」という号令のもと、戸惑いつつ繰り広げる試行錯誤(自分で調べる、先輩に聞く、思い切って教員研究室を訪ねる、または、演習発表でやらかす)も学習の一部であって、その繰り返しで自ずと知識を得て課題への対処法を身に付ける、というのが理想的だと思ってみるものの、下手をすれば半年で参加者が入れ替わるような現行カリキュラムの演習内でいかに効率的にキリシタン語学を学習するのか、その解答の一つが本書である。
それと共に、大学院の専門教育にも使える水準で、且つ、授業で日本語史を教える教員、さらに広く、キリシタン文献に関心を持つ人たちの参考にも供するというのが目標となった。そのため、各資料について詳しい研究者に執筆を依頼して実践編とし、キリシタン語学としての体系性を示すための理論編を対置することで相互に参照できる構成とした。本書中にはあちこちに参照注が出てくるが、そこには説明を行き来しながら読むことで知識を深めてもらいたいという編者の意図がある。あわせて、重要と思われるキーワードに解説を加えて関連項目内に配置することで、重要な知識をその場で理解しながら読み進めるように工夫した。
結果として各項目には執筆者の個性と主張が現れており、それが本書の隠れた魅力と言えるだろう。『天草版平家物語』の項目は、日本語歴史コーパスへの同資料の実装にかかわった知見に基づく詳細かつ具体的な解説が展開されており説得力を持つが、繰り返される「(誤った方法でコーパスを使うのは)危険である」という警告には研究上の見識と教育上の配慮が込められている。また、付録「ポルトガル語・スペイン語・ラテン語の調べ方」の冒頭に掲げられた「キリシタン版は、ポルトガル語・ラテン語・スペイン語で書かれているのだから、これらの言語を読まねばならない」も至言であり、語学的才能にコンプレックスを持つ国文科の学生は言うまでも無く研究者でも心が折れそうになるが、二次資料に頼る理解だけでは不十分な局面もあることは肝に銘じておく必要がある。
編者として難しかったのが表記の統一で、本書では悩んだ末に慣例に拠ることにした。スカリゲル/スカリジェ/スカリジェール、エヴォラ/エボラ、アウグスチヌス会/アウグスティヌス会/アウグスチノ会など、何れも間違いではないのだが、一冊の本ともなれば統一が望ましく、教科書であればその点は優先すべきだろう。但し、統一するためにはそれが最善だという理由が欲しくなり、それを言い出すと途端に難しい話になってしまう。そこで落とし所として慣例主義という方針を採用したため、各執筆者が個々の原稿では通常用いない語形を本書内で用いた箇所がある点を、編者としてお断りしておきたい。活字印刷が諸原語を印刷するようになる時代には、正書法(語の綴り)の確立に印刷工房の果たした役割が大きかったことが指摘されているが、こんにちの日本でも同じような苦労を、編者たちは十分すぎるほど味わうことになった。この点を含め、八木書店の恋塚嘉氏のサポートには随分と助けられたことを大変ありがたく感じている。