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出版部

キリシタン文献をMissionary Linguistics(宣教に伴う言語学)の視点から読み解く―『キリシタン語学入門』の刊行―(岸本恵実・白井純)

キリシタン語学の複合的・多面的な研究

しかし、宣教師たちは徒手空拳で難事業に立ち向かったわけではない。日本人キリシタンたちの助力があったことはもちろんであるが、イエズス会宣教師の言語的知識の基盤はヨーロッパのラテン語学にあったから、多言語対訳ラテン語辞書から日本語を含むラテン語辞書を編集し、さらに日本語ポルトガル語対訳辞書を出版するまでの過程には、ヨーロッパの辞書学の系譜としてみることで初めて理解できる点も多い。文法書にもイエズス会には既に標準ラテン語文法書があり、さらに同時代には数少ないがポルトガル語文法書もあった。現代では、イエズス会による日本語文法書には日本語訳もあり、日本語文法史研究の有力資料として引用される機会も多いが、なぜそうした記述が行われたのかを日本語学の領域だけで考えることには限界がある。また、ほぼ同時期に日本以外での宣教地でも文法書や辞書、教義書が作成されていた事実に目を向け、その中に日本のキリシタン文献を位置づけると、その特徴が別の角度から浮かび上がる。それを象徴する言葉が、本書『キリシタン語学入門』でも繰り返し登場する「宣教に伴う言語学」Missionary Linguisticsである。2003年から開催されているMissionary Linguisticsの国際会議や、言語史、世界宣教、日本研究の国際学会などを通じて、キリシタン文献に関する研究成果が日本内外の研究者によって発信され、学界内では広く情報共有されている。

キリシタン語学とは、このようなキリシタン文献に基づく複合的・多面的な研究領域を意味する。一方では日本語音韻史上の課題である漢字の入声音を論じ、また一方ではラテン語・ポルトガル語・日本語の動詞のパラダイムを比較するのは、このためである。自らの関心によってキリシタン版の一部を参照する際に独断を避け、誤った理解や論理に陥らないためにも、本書前半に概説としてまとめたキリシタン版の歴史や時代背景、研究史、文法書の系譜、印刷技術、キリシタン語学の位置づけは基礎的知識として有意義なものとなるだろう。