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出版部

リオ本『日葡辞書』の発見(白井純・広島大学大学院准教授)

なぜ『日葡辞書』がブラジルにあるのか

ところで、日本で出版された『日葡辞書』がなぜブラジルにあるのだろうか。その理由は、ブラジルの歴史にある。

ブラジルはポルトガルを宗主国とする旧植民地で、スペイン語圏の中南米で唯一、ポルトガル語を公用語とする。ナポレオン戦争によってリスボンを追われたポルトガル語王室が植民地のリオデジャネイロに遷都したが、その際、王室ゆかりの品々や人々がブラジルに渡り、王立図書館の蔵書もそれに含まれていた。『日葡辞書』がそのコレクションに含まれていても不自然ではないが、それを示す蔵書印がリオ本にはみられない。十数年後に王室はリスボンに帰還したが、王族のペドロ1世が摂政としてブラジルに残り、1822年に独立を宣言したのがブラジル帝政の始まりである。

その後、皇帝となった息子のペドロ2世は文化と芸術を愛する名君で、ナポリ出身のテレザ・クリスティーナ・マリアを妻とした。政治的な結婚であり、ペドロ2世は初めて見た妻の容姿に失望したという。しかし彼女は聡明な女性であり、ペドロ2世も次第に受け入れていった。ペドロ2世はヨーロッパ方面で文化財の買い付けを行っており、『日葡辞書』が含まれていたかもしれない。そんな二人の幸せな生活をしのぶ王室の離宮が、リオデジャネイロ郊外の高原の街ペトロポリスで皇帝博物館として公開されているが、いたるところに二人の写真や肖像画が飾られており、それは「お手洗いはこちら」の看板にも及んでいる。ペドロ2世はブラジルの近代化に尽力した(しかし十分には果たせなかった)人物としてブラジル国民に愛されており、ペトロポリスの雑貨屋の名前が「ドン・ペドロ・セグンド」なのも、それを象徴するのだろう。

しかし、そうした生活も1889年の軍部クーデターによって終わり、二人はリスボンに追放される。心身に大きな痛手を負い、テレザ・クリスティーナは渡航後まもなく病死、ペドロ2世もリスボンを離れ、亡命先のパリで亡くなっている。リオデジャネイロのポルトガル王室ゆかりの図書はそのままブラジル共和国に売却されたが、ペドロ2世はコレクションに妻の名前を残すことにこだわった。「彼女の名が、もっとも繊細かつ安全な方法で」残ることを希望したという。

写真6(ペドロ2世(中央)とテレザクリスティーナ(いちばん左))

写真6(ペドロ2世(中央)とテレザクリスティーナ(いちばん左))

写真7(テレザ・クリスティーナ・マリア・コレクション蔵書票)

写真7(テレザ・クリスティーナ・マリア・コレクション蔵書票)