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洒竹文庫及び和田維四郎氏

青柳の珍書会の思い出【洒竹文庫及び和田維四郎氏15】

反町 珍書会の顔触れはどんな方ですか。

村口 そうですね、大久保紫香(62)・中川徳基・林若樹・加藤直種・高橋太華(63)・宮崎三昧(64)・水谷不倒・大野洒竹・岡田朝太郎(65)・清水晴風(66)等のお歴々の方々でした。

最初から仕舞いまでつづいたのが千葉鉱蔵・大久保紫香。この大久保紫香という人は一寸質が悪い、市の日になると横山町(67)辺りへ行って安煙草入れを仕入れて来る。その煙草入れに煙草を詰めて、銀流しの煙管でスパリスパリと煙草を吸っている。すると千葉鉱蔵さんなどがこれを見て、その煙草入れを一つ入札しようじゃないかと言う。よろしい、しかし唯やっても面白くないから、一つ五十銭の下付(68)でやろうじゃないかと言う。五十銭取りたいばかりに、千葉さんなどはこの煙草入れを大分背負い込みましたが、私などのこの五十銭が取りたいので一つ買って家へ持って来ると、ちょうど女中の父が袋物屋ですから、この煙草入れを見まして、あなたはこんな横山町のものを買うのですかと言う。ヘエ、これは横山町のもんですかと言うと、こんなものは二円五十銭の横山町物だと言う、それが五円にも売れるのですから堪りません。千葉君などいくつも背負いこんだが……。

反町 珍書会は初めどなたがおやりになったのですか。

井上 伊藤福太郎さんが主催者です、その次が土井勝吉さんです。

村口 ひとしきりは、なかなか盛んなものでした。

十字屋 ずいぶん品も出たそうですね。時代が時代でしたから。

村口 光悦本の「伊勢物語」が一日に四部出た事がありました。大体品を持ってくる相手が素人ですから、真に面白いのです、目が利かない、ですから時々素晴らしい物が飛び出す、それを仲間が狙いに行くのです。けれどもだんだん品物が落ちて来ましてね。しまいには「太陽」二冊位を持って来て、平気で入札さしていた。素人方の品物を待っているのですから、長く続かないのも無理はありませんよ。

反町 林若樹さんなんかは買い手の方でしょう。

井上 林さんなぞは売りもし、買いもしました。

反町 大久保さんも売り込みの方ですね。

井上 そうです、それから千葉鉱蔵さんは売らないでいつも買い方で、よく買われましたようです。

(つづく)


※発言者
(姓・・・・・・商号 氏名)
村口・・・・・・村口書店 村口半次郎氏
反町・・・・・・弘文荘 反町茂雄氏
〇聴講者
青木・・・・・・青木書店 青木正美氏
東・・・・・・東書店 東浅吉氏
大雲・・・・・・大雲堂書店 大雲英二氏
市川・・・・・・市川書店 市川円応氏
太田・・・・・・井上支店 太田保雄氏
鹿島・・・・・・光明堂書店 鹿島元吉氏
窪川・・・・・・窪川書店 窪川精治氏
小林・・・・・・小林書店 小林静生氏
小宮山・・・・・・小宮山書店 小宮山慶一氏
酒井・・・・・・十字屋書店 酒井嘉七氏
佐藤・・・・・・崇文荘書店 佐藤毅氏
諏訪・・・・・・悠久堂書店 諏訪久作氏
高林(定)・・・・・・一心堂書店 高林定輔氏
高林(末)・・・・・・東陽堂書店 高林末吉氏
西塚・・・・・・巖南堂書店 西塚定一氏
松村・・・・・・松村書店 松村竜一氏
八木(荘)・・・・・・八木書店 八木壮一氏
八木(敏)・・・・・・八木書店 八木敏夫氏
八木(正)・・・・・・安土堂書店 八木正自氏
山田・・・・・・山田書店 山田朝一氏
吉田・・・・・・浅倉屋書店 吉田直吉(後の11代目吉田久兵衛)氏


(62) 大久保紫香 明治大正時代の愛書家。本所亀島町で質屋を営み、紫香と号して文筆をも弄した。
(63) 高橋太華 明治中期の文筆家。少年雑誌「少年園」の編集主任。
(64) 宮崎三昧 前出第四話注(78)参照。
(65) 岡田朝太郎 刑法学者。法学博士、東大教授。また三面子と号して、好んで川柳を研究し、古書にもかなり詳しかった。
(66) 清水晴風 画家、また人形の蒐集家。人形に関する著述が多い。
(67) 横山町 中央区日本橋横山町。小間物雑貨の問屋街。
(68) 下付(したづけ) 二人で入札する場合に、下値を入れた人が、罰として何がしか金額を上値の人に支払う形の賭け事。


著者

村口半次郎
村口書房(東京市神田区今川小路二丁目十七〔旧地名〕)初代主人

下谷御徒町の、有名な浮世絵版画商吉金(吉田金兵衛)方で修業。吉金は版画と共に古書を販売したが、村口さんは古典籍を主とし、中年以後は浮世絵は殆ど扱わないようでした。明治三十年頃から活躍し、四十年頃から大正九年まで、大蒐書家和田維四郎の特別の受顧を受け、そのおかげで、古典籍についての知識を広くすると同時に、業界に雄飛するに十分な資財を獲得。大正末期から昭和十年頃までが全盛期でした。古典籍業界では、東西を通じて第一の実力者として、また書林定市会(後の東京古典会)の顧問(という名の会長)として、勢威を振るいました。昭和十五年一月歿。六十五歳。


※このコラムは反町茂雄編『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)でお読みいただけます。

          

『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)  関連書・『紙魚の昔がたり』(昭和篇)