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出版部

日本古代の街路樹(中村太一・日本古代史)

2 京外の街路樹

さて、以上の事例は都城内の街路樹に関するものであるが、京外の道路ではどうだったのであろうか。『日本霊異記』下巻第16縁には、主人公の寂林法師が夢のなかで病に苦しむ女性の霊に出会い、それを法師から聞いた現世の子どもたちの供養によって、女性の霊が苦しみから解放される、という説話が収録されている。この説話の舞台について『日本霊異記』は、「大和国鵈鵤(いかるが)の聖徳王の宮の前の路(みち)より、東を指して行く。その路、鏡の如く、広さ一町許(ばかり)、直(なお)きこと墨縄(すみなわ)の如く、辺(ほとり)に木・草立てり」と描写する。厩戸王(聖徳太子)の斑鳩宮の前から東に向かう道路が、鏡のように滑らかで、広さは約1町(約109m)あって真っ直ぐに造られ、その道ばたには木や草が生えている、というのである。これは夢の中の舞台設定ではあるが、法隆寺南面を東西に通る古代の計画道路が実在したので、それを踏まえた描写とみてよいだろう。そして、「辺に木・草立てり」というのは、草はともかく、樹木は人為的に植えられた街路樹の存在が投影されている可能性が高い。

一方、天平宝字3(759)年、「道路、百姓(ひゃくせい)の来去(らいきょ・往来)絶えず。樹、その傍(かたわ)らに在(あ)らば、疲乏(ひぼう)を息(やす)むに足る。夏は則(すなわ)ち蔭に就(つ)きて熱を避け、飢えれば則ち子(し・果実)を摘みて之(これ)を噉(くら)う。伏して願わくは、城外道路の両辺、菓子の樹木を栽種(さいしゅ)せんことを」という東大寺僧普照(ふしょう)の提言を承けて、「畿内七道諸国の駅路両辺、遍(あま)ねく菓樹を種(う)えるべし」という命令が出ている〔『類聚三代格』巻7〕。これを京外における街路樹の創始とする見解もあるが、7世紀代から存在する計画道路が路面の外に広い附属地を設けていたことを考えると、街路樹の植栽はこれ以前からあったとみるべきである。

実は、この普照の提言で注目すべき点は、往来人の食糧確保の一助とするために果樹の植栽を具体的に提案したことにある。食料自弁で都へ調庸物等を運ぶ列島各地の民衆が、道中、食料の欠乏をきたしていることは奈良時代初期から問題となっており、この提言は仏教僧として民衆救済の実践を試みたものと理解される。

こうした官道沿道における果樹植栽政策はこの後も維持されたらしく、弘仁12(821)年には、道路近辺の人々が街路樹を伐採するので、往来する人々の「便宜(休息や果実)」が失われていることが問題になっている〔『類聚三代格』巻19〕。これを問題としたのは大和国司であったが、政府の命令には「諸国、宜しく此に准ずべし」とあるので、この法令の前提には全国的に街路樹が存在すること、少なくとも平安初期の政府はそう考えていたことが判明する。そして、おそらくは一連の法令が最終的に整理され法制化されたのであろう、『延喜式』巻50・雑式には「凡そ諸国駅路の辺(ほとり)には菓樹を植え、往還人に休息を得さしめよ。もし水無きの処は、量(はか)りて便(すなわ)ち井を掘れ。」という条文が盛り込まれることになった。