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出版部

日本古代の街路樹(中村太一・日本古代史)

1 都城の街路樹


2月、鳥取県埋蔵文化財センターが、青谷横木遺跡(鳥取市青谷町)で見つかった古代山陰道跡に柳の街路樹が植えられていたことが判明したという報道発表を行い、関係者の間で大きな話題となった(私が事務局長を務める古代交通研究会でも、6月24・25日開催の大会で同センターの坂本嘉和氏に急遽ご報告いただいている)。道路沿道の盛土上で検出された10世紀後半代の樹木根についてその樹種を調べたところ、柳であることが判明し、それが約100mにわたって並んでいたことが確認されたのである〔復元イラスト〕。そこで本稿では、「古代の街路樹」に関する研究の現状を紹介してみたい。

平城京の条坊街路に柳や槐(えんじゅ)が植えられていたことは、従来から指摘されてきた。これは、越前国司時代の大伴家持が詠んだ「柳黛(りゅうたい)を攀(よ)じて(眉墨のような柳葉を手で引き寄せて)京師(みやこ)を思いし歌一首・春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路(おおじ)し思ほゆ」〔『万葉集』巻19〕という歌があったり、京内各地から槐花を進上したことを記した木簡が見つかっていたからである。

また平安京になると、貞観4(862)年、朱雀大路の警備に関わって「柳樹」が「摧(くだ)け折るる」ことが問題となっており〔『類聚三代格』巻16〕、『延喜式』には左右京職の職員として「守朱雀樹四人」がみえる〔巻42〕。樹が折れたのは、貴族に仕える牛飼いたちが牛車用の牛を街路樹につないだことに起因するものと思われ、こうした行為を取り締まる法令を作り、樹木のメンテナンスを担当する役人を置いたわけである。ちなみに、朱雀大路以外の街路樹については、同じく『延喜式』に「凡(およ)そ道路の辺(ほとり)の樹、当司当家これを栽(う)えよ」と規定されていて、その道路に面した家や役所が植栽・管理することになっていた。