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出版部

海外のキリシタン史料を読むために 高瀬弘一郎(慶應義塾大学名誉教授)

文書の筆写と解読の分業を

イエズス会士の歴史研究者による布教文書の翻刻というと、われわれはどうしても、たとえばヴィッキ神父のDocumenta Indicaのごとき史料集を思い浮かべる。しかし、あの膨大な量の日本関係布教文書についてそれを期待するのは、上に記したとおり現実的ではない。そうではなくて、イエズス会側は、大量の原文書をそのまま翻刻するだけに止める。原文書・写しについて校合等を行わず、注釈等も付さない。誤記脱字があってもそのまま筆写する。手稿の文書について、ただ翻刻のみ行って先に進む。

昔南欧の文書館閲覧室で文書を調べていると、どの文書館でも、ただひたすら文書を筆写するコピスタの姿を見かけたものである。私も、読めない箇所について、隣のコピスタに尋ねたことが少なくない。おそらく多くは、文書筆写をなりわいとする人々であろう。イエズス会には、いってみればそのコピスタの仕事の如き作業を進めてもらう。翻刻すると一体何冊位になるか、一寸見当がつかない。

一方研究者の側は、その御蔭で手稿の文書を読む困難を免れることが出来る。活字ならば読むのが容易かといえば、決してそのようなことはない。文書は、その書き手により様々な文章となって遺る。せめて語法的に正しい文章を望みたいが、それすらなかなか希望どおりにはいかない。初めから活字に組んで書籍を作ることを目指す場合と、手書きの書簡等を後世の者がそのまま翻刻するのとでは、同じ活字の文面でも、その難儀は大いに異なる。しかしいかに難しくても、歴史研究者として翻刻文書を解読するだけの修練は積むべきであろう。文書の所有者であるイエズス会と、それを史料として利用する歴史研究者の双方が、困難をそれぞれ分担しようという話である。あくまで校訂を経た文書に基づく正確な邦訳を期すというのでは、一体それが終わるのは何時のことか。果たしてその可能性があるのか。とするとその間のキリシタン史研究は、研究の進歩の一方でそれと並行して、群盲象を撫ずに類する弊を流すことにならないか。