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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第13回: 六義園(一)―初期六義園の誕生まで―(宮川葉子)

(六)「十四、玉かしは」③

「世の中にはかゝる事、例の耳敏く聞ゝて、何くれの石、植木やうのもの、いさゝかも心ある形したるは皆此御料にとて奉りつ」に移る。

庭園整備を耳敏く聴きつけた世間は、由緒ある石、植木など、少しでも趣きある作庭材料を献上して来たというのである。

現在の六義園にも残る奇石類の多くは、こうした献上物なのであろう。
大老格に上り詰めた吉保への忖度の顕在である。

もっとも「植木やうのもの」は、当時のものが残っている可能性は低い。
ただ、吉保が作庭に必要とした松・藤・桜・躑躅・楓などの銘木がふんだんに届けられた状況は想像できる。

(七)保養と古今伝受

同年(元禄13年)8月22日、吉保は、「所労の後なれば、保養のため」(第3・36頁)駒込の下屋敷に遊んだ。

「所労」は5月の姉の逝去の衝撃で、7月末まで欠勤していたのを指す。
詳細はおき、吉保はこの日初めて、作庭工事の進む六義園を実際に目にしたのである。

続く8月27日、北村季吟から古今伝受。

改めて述べるが、六義園には、「新玉松」と称する和歌神祭祀所がある。

これは京都松原の新玉津島神社を勧請した、六義園の心臓とも言える神聖な所なのである。

新玉津島神社は、和歌の浦(和歌山市南部、紀川河口の片男波〈かたおなみ〉と称する砂嘴〈さし〉に囲まれた入り江)の玉津島神社(和歌三神の一として信仰される)を、藤原俊成旧宅(京都松原)に勧請したもので、北村季吟は江戸下向前そこの神官であった。

ということは、古今伝受に際し、吉保は季吟に六義園への新玉津島勧請を相談した可能性が見えてくる。

かくして六義園は、吉保の古今伝受を記念、和歌の浦の風情を写し、「新玉松」に和歌上達を祈念すべく作庭されたものとなった。

(八)六義園完成

吉保45歳の元禄15年(1702)7月5日、『年録』には、

駒込の別墅、営構成就す、地の広さ三万歩、筑山・泉水等を設けて、野趣を尽せり(第3・240頁)

とあり、六義園完成が知られる。

但し、「六義園」と呼べるのは、この3箇月半後の10月21日、当地に出向いた吉保が「様々の名所を設」(第4・30頁以下)けて以後である。

かくして元禄8年(1695)4月21日に拝領した綱紀の上け地は、和歌の浦を写し、和歌の神を招き、和歌の六義(和歌の6種の風体)を踏まえ、古今伝受記念として、吉保色を十分に発揮した所謂「六義園」として出発してゆくのである。

 


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)

〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。