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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第13回: 六義園(一)―初期六義園の誕生まで―(宮川葉子)

はじめに

六義園は、文京区本駒込所在、国の特別名勝にも指定された都立公園である。
春には枝垂れ桜のライトアップが喧伝され、それを目指す来園者であふれる。

園の原型は、元禄15年(1702)10月21日、柳澤吉保の下屋敷(多く駒込の別墅〈べっしょ〉と呼ばれる)付属の、池泉回遊式庭園(池と周囲の園路を軸に作庭された庭園)として誕生した。

作庭の思想も「六義園」の命名も吉保その人による。

以下数次に亘るコラムでは、『楽只堂年録』(史料纂集古記録編・八木書店)をおもに参照、六義園を多角的に捉え直したい。

すると、当時は枝垂れ桜が幅をきかせてなどいなかったこと、吉保が徳川綱吉の手を取らんばかりに園内を案内したなどの俗説も払拭出来るとわかる。

その上で、吉保が六義園に籠めた思い、吉保にとっての六義園の存在意義を問う。
吉保を正しく知る手掛かりとしたいためである。

(一)駒込に下屋敷地拝領

元禄8年(1695)4月21日の『楽只堂年録』(以下『年録』と略)に次の記事がある。

城北駒込村にて、松平加賀守綱紀が上け屋敷を拝領す、坪数、4万8921坪なり(第1・244頁)、

当時38歳の吉保が拝領した地は、前田綱紀(1643~1724。加賀藩第5代藩主)の上げ屋敷(幕府が返還請求した屋敷地)であった。

翌日、受取りがなされ(同上)、吉保所有となる。

以後、柳澤家7代保申(やすのぶ)が明治新政府へ返還するまで、170余年にわたり柳澤家別邸として存続して行くのである。

(二)屋敷地増大と整備

拝領地は、『年録』に「上け屋敷」とあり、構築物は想定できるが、庭の記述はない。

前田家の下屋敷にこれと呼べる庭はなく、木々が覆う原野に建物のみ存していたというのであろうか。

以後2回にわたって拝領地は増地された。
元禄10年(1697)・7月28日(第2・114頁)と、元禄13年(1700)3月29日(第3・19頁)のそれである。

結果、拝領地は総計5万1013坪となる。

元禄11年(1698)8月23日の『年録』には、「駒込の下屋敷の作事、今日成就す」(第2・181頁)とあり、何らかの普請(居住部分の増改築と思しい)が成就したのがわかるが、詳細は不明。