• twitter
  • facebook
出版部

本年4月、本文の校訂翻刻が完結! 『楽只堂年録』完結をめぐって――柳沢吉保の真姿に迫る(宮川葉子)

まとめにかえて

吉保は定府であったのは述べた。常に綱吉の側にあって滅私奉公に励んだ。そのありようは、大老格の為政者というより、綱吉個人の補佐役であったというほうが相応しい。そうした意味で『楽只堂年録』は、綱吉との個人的な結びつきの記録でもある。それ故、綱吉の家族、例えば生母桂昌院、御台所浄光院、側室瑞春院、女鶴姫・養女八重姫などへの細かい配慮も記録されているのである。

時として吉保は綱吉の佞臣であると非難されてきた。確かに吉保の目は綱吉にのみ向っていた。しかし、おのれの利益を優先する策士とは異なり、出世などを目的にしてはいない。天性からの滅私奉公で、結果の出世であった。吉保の職名は終生側用人。実質的に大老格に到るが、あくまでも正式には側用人であった。側用人とは、「将軍に近く仕え、将軍の命令を老中に伝達する職。その格式は老中に準ずるが、職務上の権力は老中をしのいだ」(『日本国語大辞典』小学館)という。権力が偉大であったから、吉保は老中を名乗らなかったのであろうか。そこにあったのは、側用人の定儀―それが正統に認知されていたとして―へのこだわりではなかったか。

さかのぼれば、吉保父安忠は、徳川家光の命で、3歳の綱吉に守り役よろしく仕え、吉保は7歳で綱吉に初拝謁して以来、綱吉薨去まで仕え続けた。綱吉に片時も離れず近侍すること、それが吉保にとって側用人に対する認識であり定儀であったのだ。その認識・定儀のもと、綱吉への滅私奉公だけを目指す、それが柳澤家の信条であった。仕えた綱吉がたまたま将軍職に就いただけで、側用人を目指して綱吉に仕えたのではない。そこに権威欲など介在しないのである。勿論、吉保の天分と運も作用したのは確かであるが、主君の希望を先取りしての、先手先手の完璧な補佐に支えられ、綱吉は文治主義政策を貫き、学者を育て、太平の世を創出して行くのである。結果綱吉は恩顧をかける。吉保はさらに報いる。ここに530石から出発した下級武士の子息の、輝かしい出世が現出したのである。

成功者への嫉妬はお定まり。講談・歌舞伎などは、面白おかしく吉保を悪者に仕立てた。もっともそこにはそれなりの理屈がある。「生類憐愍令」の行き過ぎをいさめなかったこと、赤穂藩主浅野長矩の吉良義央傷害事件裁定の不公平さなど。「生類」の方は、綱吉薨去を待ちかね解除されたが失政である。綱吉のかたくなさに負け吉保が諫めきれず、責任を一身に引き受けた観があるが、綱吉を守り抜くことが信条の吉保にとって、これもご奉公であったのだ。赤穂の件は最近見直されつつあるように、時と場所をわきまえず刃傷に及んだ浅野長矩に、即日切腹が下命されたところに落ち度はない。ただ庶民は、討ち入りに到らざるを得なかった浪士達への「何か」が欲しいのである。それが反感となり、吉保の実像を歪め、悪者に仕立て続けて来た。嫉妬の持つ恐ろしいエネルギーと言わざるを得ない。

『楽只堂年録』は、出来事全てを淡々と記録する。個人的感想・感情は1行もない。それなのに、至る所から、綱吉を守り固める家筋という自負に立ち、誠実に綱吉に向き合った吉保が浮かび上がるのである。その点を見逃さずに扱って欲しい史料である。

綱吉の終焉は麻疹罹患の中であった。吉保は薬湯を含ませた和紙を綱吉の口元に運ぶが効なく臨終。49日間、綱吉の仮廟所に日参した吉保は、きっぱりと政界を去るのである。


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。