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出版部

本年4月、本文の校訂翻刻が完結! 『楽只堂年録』完結をめぐって――柳沢吉保の真姿に迫る(宮川葉子)

はじめに

楽只堂らくしどう年録』は、柳沢吉保(1658~1714)の公用日記である。原本は、財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会、略称「柳沢文庫」所蔵。楽只堂は吉保の号。彼は徳川5代将軍綱吉(生没1646~1709、在職1680~1709)の側用人そばようにんとして大老格に到った。

源氏物語の研究から柳沢文庫へ

『源氏物語』の受容というテーマ下、中世の古典学者三条西実隆さんじようにしさねたか(1455~1537)を研究していた私は、実隆が一時、藤原定家筆天福本てんぷくぼん『伊勢物語』を所持していたのを知る。同じ頃、吉保の側室正親町おおぎまち町子著『松蔭まつかげ日記』に、元禄15年(1702)4月6日の大火で罹災した柳沢家の家宝に、「逍遥院しょうよういん(実隆)の舟なかしたるとよみ給ひし定家卿のいせ物語」(『松陰日記』巻13山桜戸)があったとの記事に遭遇。約200年を隔てた2人の間に、天福本が介在していたことに興味をそそられた。実隆と吉保・町子の間に存する何かを求め、『松陰日記』原本閲覧に柳沢文庫を訪れ、『楽只堂年録』全229巻の存在を知る。

『楽只堂年録』は、先祖書(先代の略譜)に始まり吉保誕生と続き、綱吉薨去で隠退し、妻妾共々下屋敷六義園りくぎえんに移徙する宝永6年(1709)6月をもって終わる。吉保の人世の大半を伝える貴重な史料であった。以前柳沢家には『静寿堂家譜』と呼ぶ公用日記があったが、天福本『伊勢物語』と同時に罹災し焼失。史料を博捜、再編し、元禄15年(1702)12月18日の吉保誕生日に新たになったのが『楽只堂年録』であった。再編に力を注いだのは、元禄9年(1696)吉保に召し抱えられた学者荻生徂徠おぎゅうそらい。専門家による編纂とはいえ、史料焼失による物足りなさが残る点は返す返す残念である。

『楽只堂年録』とは

『楽只堂年録』には、漢文体と和文体がある。日本古来の男性日記のありようからは、漢文体が正統であろう。しかし、漢文体は1~10巻を欠き、全貌は和文体に依る外ない。その校訂翻刻が、史料纂集 古記録編『楽只堂年録』(八木書店)として公刊され、この度本文が完結したのである。

 

(1)出世の軌跡

柳沢家は、甲斐駒ヶ岳山麓を根城とした、武田信玄の家臣団武川むかわ武川十二騎の一。吉保は綱吉に仕える父安忠と、佐瀬津那子に誕生。延宝3年(1675)、18歳の7月12日、家督530石を相続した。綱吉の将軍就任により、23歳で小納戸役に。翌年には830石。綱吉の学問の弟子第1号になる。吉保の向学心が学問好きな綱吉の目にとまったのである。貞享元年(1684)27歳時には、200石加増し計1030石になり、翌年には小納戸上席、従5位下、出羽守と称するに到る。530石から始まったのが、10年で2倍の石高である。

そして元禄元年(1688)31歳の時、1万石加増して、1万2千30石に。1万石以上を大名と呼ぶから、末席ながら大名の列に連なり、側用人に就任した。同4年(1691)34歳の3月22日、自邸へ綱吉の初御成おなり。以後58回に及ぶ。同7年(1694)37歳時にも、1万石加増、7万2千30石となり、川越城を賜り、初めての城持しろもち大名になった。但し、吉保は定府じょうふ(参勤交替せず江戸に常住)であったから、自身で任地に下ることはなかった。

40歳の同10年(1697)、2万石加増し、9万2千30石に。歴代帝陵ていりょうの修垣を開始する。その翌年、東叡山とうえいざん寛永寺根本中堂建立の総奉行を勤め、近衛少将に任官、老中上席(実質大老格)に到る。同14年(1701)11月26日、松平の称号拝領、綱吉のいみな「吉」字を賜り、保明やすあきらを美濃守松平吉保、継嗣安貞やすさだは伊勢守松平吉里よしさとと名乗る。翌年3月には、綱吉生母桂昌院けいしょういん叙従一位。吉保の尽力の賜物であった。

吉保も46歳になった16年(1703)、所謂元禄地震が関東を襲う。老中上席吉保に寄せられた被害状況は『徳川実紀』の比ではない。東日本大震災以降、巨大地震の発生云々がかまびすしい昨今、関係各所で大いに分析して欲しいデーターである。地震を一新すべく改元がなされ、宝永元年(1704)となる。60歳を眼前に継嗣不定を案じる綱吉に、吉保は甲府綱豊(家綱)を推した。同年12月、3万9千200石加増し、甲斐・駿河内で15万1千230石に到る。続いて翌年4月、上地じょうち(実り多き土地)ではないと駿河領を返上させた綱吉は、甲斐1国の国主とする。内高うちだか(実質上の石高)22万8千石。吉保は国持大名になったのである。綱吉はそれほどに継嗣決定を評価し喜んだのである。天災は予見できない。元禄地震から4年しか経っていない宝永4年(1707)10月4日、宝永の大地震が勃発。続く11月23日、富士山が噴火。富士南東斜面に宝永山ほうえいさん2,702メートルを形成した大噴火は、江戸にも火山灰を降り注いだ。うち続く天災処理に疲れ果てたように、宝永6年(1709)1月10日、疱瘡に罹患した綱吉は、呆気なく薨去。64歳。12歳年少の吉保52歳。時を同じくして、疱瘡に感染していた綱吉室鷹司信子59歳は、2月9日薨去。綱吉薨去の一箇月後にあたる。急転直下の中、事後処理を完璧に済ませた吉保は、同年6月3日、隠居。家督は継嗣吉里が相続した。

 

(2)家族

正室は同族の曾雌定子そしさだこ。吉保19歳に17歳で嫁ぐが、子供に恵まれず側室が手配された。吉保は6人の側室(飯塚染子いいづかそめこ・正親町町子・横山繁子・片山梅子・上月柳子・祝園トラ子(勢世子))を持つが、特記されるのは染子と町子。染子は吉保継嗣吉里の生母。町子は正親町公通きんみちと大奥総取締右衛門左局えもんのすけのつぼねの娘で、吉保を堂上方とうしょうかたの文芸世界へつなぎ、2男子(経隆つねたか時睦ときちか)を産み、『松陰日記』を残す。詳細は省くが町子は間違いなく三条西実隆の子孫であった。実子の他に養女3人がいる。うち土佐子と永子は、吉保の片腕として綱吉臨終の折も控えていた、黒田直重と松平輝貞のそれぞれ室であった。

 

(3)学芸

吉保が詠歌に志した時期は不明ながら、専門的に歌学に接するのは、北村季吟が元禄2年(1689)に幕府歌学方に採用された直後頃と思われる。『静寿堂家譜』焼失で正確には辿れないが、元禄13年(1700)8月27日、季吟より古今伝受する。その伝受史料が柳沢文庫に残されている。これで歌人として一人前になったのである。

以後、正親町公通・町子父子の仲介で、霊元上皇の添削を吉保・吉里揃って承けるようになる。また霊元上皇周辺の堂上歌人との交流、殊に中院通茂・中院通躬・野宮定基父子とのそれは深まり、定基(通茂息、野宮の養子になる)の娘幾子は吉保の養女となる。

その一方で、吉保は家庭内での和歌会を催し、婦女子に和歌上達の機会を与えている。町子は勿論、正室定子、吉里生母染子、養女土佐子などはその家集を残すほどであった。
学問では、綱吉の第1番弟子になって以来、江戸城での漢籍講釈には積極的に関わる。多くの学者抱え、彼らを講釈の場に臨ませ、綱吉御成時には漢籍のみならず、『源氏物語』『徒然草』『日本書紀』『新古今和歌集』などの講釈も行わせた。後に名を残した学者達 には、前述の荻生徂徠を初め、服部南郭・細井広沢・柏木全故(素龍)等があった。