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出版部

本年4月、本文の校訂翻刻が完結! 『楽只堂年録』完結をめぐって――柳沢吉保の真姿に迫る(宮川葉子)

(4)業績

吉保の業績として特筆すべきは、三冨さんとめ開発と帝王陵修垣であろう。前者は、元禄7年(1694)に川越城主となって以降になされた新田開発。帝陵修垣は、同10年開始。全国に点在する天皇陵が荒れ放題であるのを愁えた吉保が綱吉に進言、逐条調査させ所在を明確にし、玉垣を施させた事業である。吉保の祖先を敬う生き方の現れでもあった。

 

(5)信仰

若い頃、この世には人力じんりょくの及ばない何かがあると悩んだ吉保は、それこそが信仰心の原点だと教えられて以来、仏教に帰依する。殊に黄檗山おうばくさん万福寺の中国僧、悦峰和尚と親しく交流。宝永6年(1709)10月10日の剃髪は、悦峰を導師になされた。現在も奈良県大和郡山市の柳澤家菩提寺永慶えいけい寺(永慶は吉保の道号)は、黄檗宗寺院である。

さらに吉保には『勅賜護法常応録』の著作がある。霊元上皇に「護法常応録」の書名を賜った名誉ある参禅録。これには「故紙録こしろく」と名付けられた、側室染子の参禅録が附録として備わり、誕生した4人の子のうち3人が早世、吉里1人が生き残った悲しみから立ち直るための仏道入信であったと伝える。

一方で、後西天皇皇子で、三管領さんかんれい領(比叡山・東叡山・日光山にっこうさん三山の長の意)の宮と呼ばれた公弁法親王とも親しかった。宮は寛永寺常住であり、幕府菩提所でもあるそこは、綱吉が定期的に参詣、吉保が供奉していたからである。法親王は吉保邸にも、下屋敷六義園や真土山まつちやま(現在の浅草聖天社)も訪問、吉保一家と親しく交流した。公的には、寛永寺根本中堂建立にあたり差配奉行を勤め、従四位下近衛少将に叙任される名誉にも与った。

 

(6)六義園

元禄8年(1695)4月、駒込に下屋敷地を拝領。前田綱紀の上地あげち(幕府没収地)であった。同15年(1702)までの数年をかけ、吉保は和歌に因む庭園を作庭する。それは和歌の浦を写しとり、和歌の神たる玉津嶋社を勧請したものであった。そして「詩経」(中国最古の詩集)にいう漢詩の六種の分類により六義園と命名した。園内には88箇所の名所を自ら定める。それを描かせた六義園絵巻を霊元上皇に献上。上皇は12境8景を勅撰した。かくて六義園は勅撰名所を持つ庭ともなるのである。六義園に関しては、その後の庭園増大や新設など、語ることは多いが、『楽只堂年録』第108巻、元禄15年10月21日に記録される「六義園記」こそが、最も初期の六義園の姿を伝えるものであることを忘れてはならない。

当園に足を運んだ人物は、綱吉生母桂昌院、公弁法親王、綱吉女の鶴姫と養女八重姫、黄檗山悦峰和尚などがあった。迎賓のために凝らした吉保の工夫など、当時の文化の有りようを知る好史料である。ただし理由は未詳ながら、吉保邸に58回の御成を繰り返した綱吉の来園はない。吉保は隠退後、ここを終の棲家すみかとした。町子筆の『松陰日記』の末巻「月花」は、世間を逃れた吉保が、気ままに六義園の四季を楽しむ姿が描かれる。最期も当園であった。

 

(7)屋敷

吉保級の大名になると、上屋敷・中屋敷・下屋敷を拝領する。吉保の上屋敷は、神田橋と常盤橋一帯、現在の大手町1丁目あたりで、江戸城本丸から目と鼻の先に位置する。そこには綱吉の御成御殿や成長した子息達、女婿達の家屋群、何百人と抱えていた家臣達の住居(今でいう官舎)などが軒を並べ、合わせて数万坪に及んでいた。

総じて中屋敷と下屋敷の区別は明確ではない。上屋敷以外は一括され、所在地を被せ「萱町屋敷」とか別墅べっしょなどと呼ばれる。これらは柳沢家の場合、上屋敷火災の際の避難場所になったり、吉保生母の住居となったりした(霊岸島れいがんじま屋敷やくら屋敷)。勿論本来の別荘(別邸)として大いに活用もされた。六義園や萱町かやまち屋敷(真土山)がそれである。

晩年には芝屋敷も拝領。これは現在の旧芝離宮恩賜庭園そのものと思われるが、今は触れない。また京都荒神口こうじんぐちにも屋敷を拝領している。さらに小菅こすげには、抱え地(農民から買い取り所有した土地)10万坪を入手。ここは現在の東京拘置所となっている場所と思われる。

以上は江戸市中に限った屋敷。晩年、吉保は甲斐国主であったから、甲斐15万1千230石に相応しい甲府屋敷などを含めると、膨大な地主・家主であったのである。