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立正大学・古書資料館の世界

書入れが語る明治文人の交流 【立正大学・古書資料館の世界 1回】(小此木敏明)

2 木内柔克について

『晩晴楼詩鈔』の所有者は、先の会に参加していたのだから、当然、二松学舎に縁のある人物ということになる。一見、立正大学と関係なさそうなこの本が、なぜ古書資料館にあるのか。また、この所有者はどのような人物なのか。そういったことを調べることは専門員の仕事の一環であり、自身の興味の範疇でもある。現在、古書資料館にある蔵書は、過去に立正大学の教員であった人物や、日蓮宗の寺院から寄贈された本が多い。その中には、文庫として認定されているものもある一方、寄贈者がほとんど意識されていないものもある。今回の『晩晴楼詩鈔』は後者ではあるが、幸いなことに旧蔵者の履歴を調べることができた。

『晩晴楼詩鈔』の持ち主は、木内柔克(1862~1930)、号を天民といい、教育者であり書家でもあった人物だと考えられる。亡くなるまで25年間に渡り、立正大学(中等科・大学科)で講師を勤めており、日蓮宗の信者でもあった。没後の昭和6年(1931)には、立正大学内に木内先生遺稿出版会が組織され、『天民遺稿』という漢詩文集も出版されている。柔克氏の蔵書は、没後まもなく、ご子息の木内啓氏によって立正大学図書館に寄贈された。

 

『天民遺稿』の木内柔克肖像

 

柔克氏は、千葉県香取郡山倉村の出身で、明治15・16年(1882・83)頃に二松学舎(現二松学舎大学)に入塾している。これ以降、三島中洲とは師弟関係にあった。柔克は書もよくしたが、それは中洲も認めていたようで、自らの文章を柔克に揮毫させることもあった。たとえば、進鴻渓著, 信原機編『鴻渓遺稿』(荘直温、1906年)に寄せられた中洲の序文や、中洲の兄である正縄夫婦の墓碑の一つは柔克の筆による(伊藤忠綱「三島中洲碑文釈文及び解題」、戸川芳郎編『三島中洲の学芸とその生涯』雄山閣出版、1999年)。

 

『鴻渓遺稿』、木内柔克の筆による三島毅(中洲)の序文

 

その他、柔克の書を評価していた人物に、幕末明治の政治家として知られる品川弥二郎(1843~1900)がいた。柔克の友人だった小沢打魚によると、弥二郎は柔克の書を飾り、来客に自慢していたという(『天民遺稿』序文)。この証言の裏は取れないが、二人に交流があったことは確実である。柔克は、演劇改良運動などで知られる依田学海(1833~1909)とも親交があった。学海の日記である『学海日録』を見ると、柔克の名が何度か確認できる。その中には、柔克が学海のもとに弥二郎の書を届け、学海がそれに返書をしたという記述もある(『学海日録 第11巻』岩波書店、1991年 明治31年12月6日条)。

柔克は、教育者として立正大学以外でも漢学や習字を教えていた。確認できたところとしては、神田中学・永代商業学校・主計学校・京華中学校・中央商業高等学校などがある。また、自ら『中等教育作文資料』(東華堂、1905年)という参考書も編纂していた。奥付の著者は「木内桑克」となっているが、「柔」の誤植だろう。作文資料として様々な漢字仮名交じりの文章を掲載しているが、その最初の文章には、師である三島中洲の「玉川に香魚を網する記」を配している。

南摩羽峯と柔克の間に交流があったかどうか不明だが、中洲を通じて何らかの接点があった可能性もあるだろう。