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立正大学・古書資料館の世界

書入れが語る明治文人の交流 【立正大学・古書資料館の世界 1回】(小此木敏明)

1 『晩晴楼詩鈔』の書入れ

今回から、さっそく古書資料館の本を紹介していきたい。初回ということで、何を紹介すればよいかとかなり悩んだ。前回も述べたが、おそらく、立正大学は仏教系の大学というイメージを持たれていると思う。仏教系の大学が収集する蔵書は、やはり仏教書が多い。古書資料館の蔵書も、仏教関係7割、他3割という感じになっているが、あえて仏教書を外してみることにした。

きっかけとなったのは、少し前の八木書店の出版物メールニュースである。メールに目を通していたところ、3月29日の『読売新聞(朝刊)』に、小林修氏の『南摩羽峰と幕末維新期の文人論考』が紹介されたという記事が目に止まった。去年、館内の展示コーナーに出すものを物色していた際に、南摩羽峰の名前を少しだけ調べたことを思い出したためだ。

明治41年(1908)9月、『晩晴楼詩鈔 二編』(辻太発行、開発社発売)という漢詩集が出版された。著者の土屋鳳洲は幕末から大正期の漢学者であり、『西蔵(チベット)旅行記』で知られる河口慧海が少年期に師事した人物でもある。この本は、明治後期の活字本で、正直なところ特別に珍しいものではない。しかし面白いのは、見返しに次のような文章が書入れられている点である。

明治四十一年十一月一日初日曜日開二松学舎修
睦会於赤坂街三会堂中洲南羽峯
来会土屋弘亦来中翁所書詩数葉
以抽籤配会員弘氏亦以自著十本抽籤
余当籤所得是也

『晩晴楼詩鈔 二編』見返しの書入れ

 

書入れを読むと、元の持ち主がどこでこの本を入手したかが分かる。明治41年(1908)11月1日、赤坂町の三会堂にて二松学舎修睦会が開催された。三会堂は現在、港区赤坂にある三会堂ビルと関係があるかもしれない。そこに、「中洲」「南羽峯」「土屋弘」がやってきた。その後、抽選会が行われたようだ。おそらく、この会の余興の一環だったのだろう。現在だとビンゴ大会のような感覚だろうか。その抽選会の景品として、中洲翁は自らが書いた漢詩を数枚、土屋弘氏は自分の著作十冊を提供した。この本の持ち主はくじに当たり、土屋の著作を入手したという。即ち、この『晩晴楼詩鈔』のことである。

書入れに見られる「中洲」というのは、二松学舎大学の創始者として知られる漢学者の三島中洲(1830~1919)、「南羽峯」は南摩羽峯、「土屋弘」は土屋鳳洲を指すと思われる。鳳洲の『晩晴楼詩鈔』には、中洲と羽峯も評者として名前が載る。この三人に交流があったことは、『南摩羽峰と幕末維新期の文人論考』でも確認できる。また、『二松学舎百年史』(二松学舎、1977年)によると、南摩羽峯は明治37年(1904)に同学の漢文講師となっており、土屋鳳洲も明治40年(1907)に同じく講師となっていた。そのため、二松学舎の集まりに先の三人が参加していてもおかしくない。南摩羽峯の没年は明治42年(1909)4月なので、この書入れから半年ほどで亡くなっている。

古書資料館が所蔵する『明治文雅姓名録』(清水信夫、明治12年)に、南摩羽峯の名前と住所が載っているので、その画像も上げておく。

 

『明治文雅姓名録』20丁表