• twitter
  • facebook
コラム

企画展「秋聲全集物語」『徳田秋聲全集』記念鼎談報告(抄)

本コラムは、徳田秋声記念館発行『夢香山』平成29年3月20日より転載いたしました。
http://www.kanazawa-museum.jp/shusei/mukouyama/pdf/mukouyama_09.pdf


平成28年11月12日(土)、企画展「秋聲全集物語」にちなみ、『徳田秋聲全集』の版元である八木書店の担当編集者であった滝口富夫氏、編集委員のおひとりである小林修氏(実践女子大学教授)、編集作業に携わられた大木志門氏(山梨大学准教授・当館前学芸員)をお招きして、刊行にまつわるエピソードについてお話しいただきました。


――秋聲全集の歴史

大木志門氏(司会兼) まずこれまでの秋聲全集についてお聞かせください。

小林 修氏 秋聲の全集は、昭和十一年頃、『仮装人物』連載中にそれが完成するだろうという見込みのもと、非凡閣から刊行された全十四巻別巻一のものがあります。当時秋聲の周辺にいた菊池寛、久米正雄、里見弴、島崎藤村、中村武羅夫、広津和郎、室生犀星といった錚々たる作家たちが編集委員を務めました。けれども『仮装人物』が秋聲の病気により(この時点で)完成に到らず収録できなかったこととともに、刊行後に発表された『光を追うて』『縮図』といった名作が当然この全集には入っていません。生前に出たものなので〝全集〟としては不完全ということになる訳です。やがて秋聲が亡くなり、戦後になって、小説家の和田芳恵と武田麟太郎が角川書店を引き込んで、全集の計画をたてます。武田は秋聲を尊敬し、直接の弟子ではないけれど、秋聲文学の後継者は自分であると公言するほど秋聲に心酔していた作家です。秋聲長男の一穂さんと相談しながら熱心に取り組んでいたのですが、肝硬変で急死し、結局実現できませんでした。

昭和二十二年、大地書房から菊池や川端らを編者に、全二十六巻本の制作が発表されましたがこれも実現できず、『仮装人物』一冊を出しただけで終わります。そのあと文芸春秋新社から「全集」はやはり難しいということで『秋聲選集』が企画されます。全何巻の予定であったか、また編者も不明ですが、五冊で中絶。次に乾元社から広津、川端、宇野浩二の編集で、全十巻予定の選集が企画されますが、結果三冊で潰れます。昭和三十六年、雪華社が今度は「全集」という名で刊行を開始。室生、広津、川端らが携わり、良い全集だったのですが全十五巻予定のうち六冊で中絶します。一穂さんの細やかな校訂が施されていただけに、本当に残念なことでした。

その後、臨川書店が最も巻数の多い生前の非凡閣版を復刻のうえ、雪華社版に収録された『仮装人物』『光を追うて』『縮図』などを加えて『秋聲全集』全十八巻を刊行します。これがそれまでで最も完備した全集となり、研究者にも利用されました。とはいえ、秋聲という人はものすごく長く小説を書き続けた作家ですから、このくらいの全集で収まるはずがありません。前述の出版社がことごとく潰れていくので、私の学生時代には秋聲全集を出す出版社は潰れるというジンクスが囁かれていたほどです(笑)。そういった状況下で八木書店が刊行を決め、結果的に見事に完成に漕ぎ着けました。もちろん完璧ではありません。落としたものも、まだまだといったところも多々ありますが、全四十二巻別巻一という規模で、しかも中絶をせず完結したというのは空前絶後のことであろうかと思います。これ以降もおそらく出ないでしょうね。

滝口富夫氏 何故そんな危ない全集に手を出してしまったのかといえば、単純にそのジンクスを知らなかったんです(笑)。

そもそも弊社は金沢市とゆかりが深い出版社で、その代表的な刊行物は『尊経閣善本影印集成』で現在全五十九巻継続刊行中の一大叢書です。尊経閣文庫とは加賀藩五代 前田綱紀公の集めた蔵書ですね。また『秋聲全集』に先立ち『石橋忍月全集』『近松秋江全集』の企画制作をしたのですが、忍月は「北國新聞」の編集主幹を務めた人物。秋江は、秋聲とも親しく、実はその全集を編集中、秋江筆の書簡を集めるために徳田章子さん(秋聲令孫・当館名誉館長)にお手紙を出したのが始まりでした。ある日社に電話がかかってきて、近所だから今度届けてあげる、と。そうしてご提供いただいた五通の書簡のなかには、秋江の代表作『黒髪』の背景を生々しく報告するものもあり、これほどのものを所蔵する徳田家の存在に驚愕しました。そんなご縁があって、次に『秋聲全集』を手がけることになったのです。

一般的に文芸出版社ならば小説を中心に、あるいは面白いエッセイを中心に出すのだと思いますが、この全集は文芸書でなく学術資料として作ってやろうと思っていました。大木先生には当初からアルバイトとして来てもらっていて、秋聲の作品の掲載がひとつあるとわかった雑誌があるとすると、図書館に行き、ローラーといってその雑誌の全冊を調べるんですね。そして書誌をとるため表紙、目次、奥付までをコピーする。何字詰×何行×何段組×何頁ということを記録し、ファイルに入れてとっておく。面白いものだけ出そうということでなく、学術情報としていかに網羅するかということを考えました。

大木 とにかく各地の図書館に行き、コピーをし続けるというのが私の大学院時代でしたね(笑)。〝全集〟という名にふさわしい形が目指された訳です。

また、徳田家所蔵資料が重要な位置を占めていますね。おそらく一穂さんがかなり意識的に資料を集めておられたのではないかと思います。昭和二十五年、文京区本郷の旧宅が野口冨士男や一穂さんらの尽力で東京都の史跡に指定され、それと前後して秋聲自身も持っていなかった資料を一穂さんが身銭を切って集められた。自前で「秋聲記念館」を作りたかったということがあったのではないでしょうか。

小林 おそらくそうでしょう。秋聲に最も可愛がられた安成二郎の『花万朶』という優れた回想集に、秋聲宅にはご自身の本がほとんど保存されておらず非常にお粗末だったと書かれています。そこで秋聲の古い作品を古雑誌から集めて厚い冊子にとじて贈ったら非常に喜ばれた、と。

また、驚いたのがやはり書簡です。メディアにも大きく取り上げられた芥川龍之介の書簡や、漱石、花袋、田岡嶺雲といった貴重で良質な書簡がきちんと整理され保存されていました。徳田家にもともとあったものと、一穂さんが集められたものも随分あったのではないでしょうか。何より家屋そのものが、晩年に建てたフジハウスというアパートとともに関東大震災や戦災も免れ、現存するのがすごいことだと思います。それらを利用して、記念館のような形を考えられていたのだろうと。そのようにして残された資料を収録できたことで、『秋聲全集』の価値が一段と高まりました。