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コラム

暴食,色欲……宣教師のみた日本人の“大罪”(日埜博司・ポルトガル文献学)

●日本人の性倫理

モーセの十誡および七大罪に即して整理された日本人キリシタンの告解文。それぞれが17世紀初頭日本人の心性や,風俗・習慣を暴き出す証言の貴重な一齣一齣であるわけだが,それは,図らずもそうなった,ということで,そうした分野の研究材料をコリャードが後世の俗人たる我らへ意図して伝えようとしたわけでは,むろんない。

第一誡(御一体のデウスを敬ひ,貴み奉るべし)と第六誡(邪淫を犯すべからず)は,最も多数15ずつの告解をその中に含む。

第六誡に関する告解その三は,無類にコミカルでありながら何となく切ない。それは若い有夫者との邪淫に耽った男の告白。既婚の女であるからには,「皿打ち割ってあらう」と思うていたところ,なんとその夫,「叶はいでござった」(インポテンツであった)ため,ついに男自身が初めて「本に致し」てしまった,というもの(処女を奪う,という意味での「皿打ち割る」は,民俗誌における「十三サラワリ」を想起させる)。日本人と呼ばれる人々が今住む列島では古来,性倫理における宗教からの束縛がよほど緩かったのであろう。

『フロイス 日本史』によると,豊臣秀吉はキリシタンとの関係がまだ悪くなかった頃,大坂の教会を突然訪ねパードレらと談笑し,蓄妾の禁を解いてくれるなら,余はすぐにもキリシタンとなるだろう,という軽口を上機嫌で叩いたという。淫らな念を心に廻らすだけでその者は姦淫を犯したのだ,という聖マタイの誡めも,サトウサンペイの四コマ漫画(本書に収載)では茶化しの対象だ。

『懺悔録』からはやや時代が下るが,粋を重んじた江戸期文藝の世界には,男女を問わず,あるいは,自他を問わず,性をめぐる振舞いと,それに起因するぶざまをあっけらかんと笑い飛ばす一種ゆとりに満ちた文化があった。「バレ句」と呼ばれる川柳の一ジャンルがそれを巧みに描き出す。ひとつの性的〈過ち〉が日本では,ときにニンゲンという生き物の可笑しさを嗤う恰好のネタとなる一方,深刻な宗教的内省の対象となることなど,まずなかった。

第六誡に関する告解その十一は次のとおり。男の夜這いを猛然たる抵抗で一度は退けた女性,再び夜這いを掛けてきた男に対し,「かねてからその約束夢にもござらいで」,少しばかり「対捍(たいかん)・偏気」したけれどやがて「心が自然(じねん)傾き寄って」,ついに……。このような女性キリシタンの心情を射通したバレ句は――

あれあれのれの字段々紛失し

罰当たりな企てと我ながら呆れるが,上記のバレ句に,説明的なポルトガル語訳を加える。As mulheres forçadas a copular, mesmo que digam várias palavras de rejeição tais como “Are are” nos inícios, costumam perder gradualmente a sílaba “Re”, à medida que se lhes aprofunda o deleite torpe.(性交を迫られた女性は,最初こそ,「あれあれ」など拒絶の言葉を発するが,歪んだ快楽が深まるにつれ,『れ』というシラブルを徐々に失うのが習いだ。)

 


コリャード懺悔録
日埜博司編著『コリャード 懺悔録―キリシタン時代日本人信徒の肉声―』の詳細・ご購入はこちらから

https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2128

 

 

 

 

 


 

日埜博司先生1日埜博司(ひのひろし)

1955 年兵庫県生まれ。
流通経済大学教授(ポルトガル文献学)。
上智大学でポルトガル語を,京都外国語大学大学院とフルミネンセ連邦大学(リオデジャネイロ州ニテロイ市)文藝研究院(Instituto de Letras, Universidade Federal Fluminense, Niterói, RJ)で欧亜交渉史・ポルトガル文献学を,それぞれ学ぶ。

 

 

〔主な著訳書〕
・「ポルトガルの海外発展」(松田毅一/ 坂本満編『近世風俗図譜 13 南蛮』小学館,1984 年)
・ジョアン・ロドリゲス『日本小文典――附,アジューダ文庫蔵,1620 年マカオ刊本影印』(新人物往来社,1993 年)
・ガスパール・ダ・クルス『中国誌――附,コインブラ大学総合図書館蔵,1569-70 年エヴォラ刊本影印』(新人物往来社,1996 年)他多数