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コラム

暴食,色欲……宣教師のみた日本人の“大罪”(日埜博司・ポルトガル文献学)

●「二日酔ひ」のポルトガル語訳とは?

文化的背景の差異ばかりか彼我で異なる生理条件(!)にまで思慮を巡らせ,それを踏まえ踏まえしながらひとつの訳語に辿り着いたそんな一例を紹介してみる。

暴飲暴食を意味する「貪食」(tonjiqi. トンジキと訓ずる)はカトリックの七大罪のひとつ。室町期の京都では,酒宴の果ての嘔吐が一種の座興と見なされていたらしく(桜井英治『室町人の精神』),『懺悔録』にも,「大事なる客衆二,三人」がわが家へ来たので,二日間それを「抑留」,少々の「肴が有って酒盛り」をしたあげく,「四人(よったり)ながら二日酔ひ致しまらした」という告解が見える。

さてこの「二日酔ひ」をどうポルトガル語へ直すか。

アルコールを解毒する肝臓の機能において欧米人は日本人に先天的に勝るらしく,その生理的条件ゆえに,教養豊かな階層である限り,彼らにとって「酔う」とは通常,心地よく楽しい感覚,でしかない。

イエズス会の刊行した『日葡辞書』(長崎,1603年刊。補遺,04年刊)には,Yoi(酔ひ)という言葉に,bebedice, ou enjoamento(酔っ払うこと・酒浸り,もしくは,吐き気・むかつき)という語釈が付してある。

「二日酔ひ」を,翌日も継続する酔い,とポルトガル語訳すれば,上述の理由により,楽しい気分が二日間続いたかと誤解される惧れが生ずるし,翌日に持ち越す吐き気・むかつき,と訳しても,酩酊は,ルイス・フロイスによると,一種自慢のタネでもあったわけだから(『ヨーロッパ文化と日本文化』),苦痛感のみ漂う訳語は少し拙い。

そこでポルトガルにおける共同研究者ルシオ・デ・ソウザがよい智慧を授けてくれた。ここはcarraspana(酩酊・グテングテン)という俗語を使うとよい。やや苦しい酔いは翌日も継続したがまあそれもいいではないか,という開き直りの気分をvalenteという形容詞で示せ。そういう苦しいような楽しいような状態が二日間継続した,とすれば,何とか「二日酔ひ」の意味が輪郭だけでも理解されるだろう,と。

●16~17世紀の日本語発音はポルトガル語式の綴りで

コリャードはポルトガル系のイエズス会に終生強い対抗意識を燃やし,イエズス会との関係は相当に険悪であった。その彼が偏狭な言語ナショナリズムの虜となり,日本語をイスパニア語式の綴りを用いて表記しようとしなかったことは,賢明な選択であった。

現在の日本人が失ってしまった「じ」(ji)と「ぢ」(gi)の区別,「ず」(zu)と「づ」(zzu. ジョアン・ロドリゲスは『日本語小文典』においてdzuの使用を強く主張する)の識別など,括弧内に記したポルトガル語式ならまずまず可能であるのに対し,同じことをカスティーリャ語(いわゆるイスパニア語)風の綴りでやろうとしても,不可能だ。Zaragoza(サラゴーサ)という地名の発音からわかるように,カスティーリャ語にはサ行濁音に相当するシラブルが存在しないから,zanzato(ざんざと)という副詞など,イエズス会が確立した日本語表記のルールを守りNigori(濁り)で発音するしか途はなかった。


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