暴食,色欲……宣教師のみた日本人の“大罪”(日埜博司・ポルトガル文献学)
●異色の書 『懺悔録』 の刊行
1632年,ローマの布教聖省(プロパガンダ・フィデ)は,イスパニア人ドミニコ会宣教師ディエゴ・コリャードの編著『懺悔録』を刊行した。1620年代初め迫害下の長崎近辺で,みずからが聴取した名もなき日本人キリシタンの告解を,モーセの十誡や七つの大罪というテーマごとに分類,その赤裸々な肉声を日本語のまま,ポルトガル語式のラテン文字で書き留めた興味深い書物である。
天理大学附属天理図書館が所蔵するその原著は,全篇66頁。これを題材としてこのたび,『コリャード 懺悔録――キリシタン時代日本人信徒の肉声』と題する作品を八木書店から上梓した。テキストの翻刻・翻字はもちろん,その現代和語訳,原文からのポルトガル語全訳注,もろもろの補説のほか,キリシタン史の泰斗高瀬弘一郎教授の業績から,本書の内容にゆかりの深い3篇を「特論」(ポルトガル語訳および日本語原文)として収載するなどした結果,B5判732頁に及ぶ大冊となった。
大塚光信教授など諸大家による先行業績がある『コリャード 懺悔録』。無名のポルトガル文献学徒が,何を今さら,屋上屋を重ねる? まずはこのテーマを手掛けるに至った経緯を説明せねばなるまい――特に「屋上屋」ではないことに関して。
カトリックの懺悔(正しくは告解。当時はコンヒサンというポルトガル語からの音訳がもっぱら用いられた)は,いわば個人情報の極致の如きものであって,当然ながら,これを聴取した司祭には厳重な守秘の義務が課せられる。ところがわがドミニコ会士は,日本人信徒の告解のかずかずを公にするため巧みな方便を思いつく。つまり,これから来日するであろう同僚向けの実戦的な日本語文例集を仕立てるに際し,これらの告解を材料に用いようというのだ。
それにしても宣教師が聴取した信徒の告解を,匿名とはいえ,話し言葉のまま,活字化し公にするとは,やはり穏やかならざる行為,と言うほかない。
16世紀以降,世界に教線を伸ばしたイベリア両国に属するカトリック宣教師は,それぞれが赴いた布教地の言語を用いカトリックの教理を平易な口語で説いた書物を上梓した。日本でも『ドチリイナキリシタン』という教理書をイエズス会が刊行している。他方,告解の場で聴取した信徒の声をナマのまま公刊,などという典籍は,私の知る限り類例皆無。ゆえにポルトガルの(広くは欧米カトリックの)読者人にとって,『コリャード 懺悔録』の如き書物は,おそらく珍奇そのものの存在だと思う。
『懺悔録』が17世紀初頭のラテン文字による日本語で記されている以上,その内容を咀嚼し,これをポルトガル語へ移植できれば,多少のオリジナリティーを主張しうる作品が生まれる。私はそう思い,熟慮と丹精をもって『懺悔録』を日本語オリジナルからポルトガル語訳し,これに多少の脚注を附した。この作業を収載する第五章こそ――主観的には――拙作の核心である。
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